なぜ、オルティスに投票して、ボンズとクレメンスに投票しなかったか

スポーツ報知
オルティス

 私はボンズとクレメンスの才能に敬服しつつ、殿堂選考では一度も投票しなかった。2人は2006年以降の薬物調査に基づく「ミッチェル報告書」(07年公開)に名前が挙がったからだ。今年は有資格者にオルティスが加わった。オルティスは同報告書で摘発されていないし、ラミレスやロドリゲスと違って、ドーピング検査で一度も陽性になっていない。だが、2009年にNYタイムズ紙が、「03年の検査で陽性だったリストに入っていた」と報じたことがある。これをどう扱うか、考える必要があった。

 大リーグの薬物問題は、強打者の本塁打競争が人気を博した背景もあり、機構が黙認してきた歴史がある。古くは19世紀から興奮剤の摂取があり、コルクバットの使用やボールに松やにを塗る不正行為もあった。機構が不正薬物禁止を公にしたのは1991年に遡るが、その後10年以上、検査も罰則もない時代があった。ドーピング検査導入は2003年。翌年、罰則が適応された。以後、検査の手順や頻度を変え、当該薬物のリストを整え、改革は段階を踏んだため、時系列で「アウト」のラインが少しずつズレており、黒か白かの線引きが難しい。私は2004年の罰則導入を一つの目安と考えた。「罰」の設定で、それまでのグレーゾーンが、明確な「罪」と示され、「検査」は調査のためではなく、摘発のためのものになった。

 私は、オルティスの2003年の検査について以下の点を考慮した。〈1〉「グレーゾーン」期間に行われた予備調査であること。〈2〉サンプルは棄却され、非公開を前提としていたこと。〈3〉選手会が「調査は不確実」と声明を出したこと。〈4〉当該する不正薬品の範囲が構築中だったこと。〈5〉その後、オルティスが1度も陽性にならなかったこと。

 薬物が完全に体から抜けるには1年以上かかると聞く。機構もその辺を配慮し、まず警告し、検査を導入し、罰則を強化しつつ、プロセスを踏んだ。選手には「グレー」から「クリーン」に方向転換する猶予があったのだ。2004年以降の摘発に寛容になれず、私はオルティスに1票を投じ、ボンズとクレメンスの投票を見送った。

(全米野球記者協会会員・ボストン通信員・一村順子)

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