横浜FC移籍の東京五輪のエース候補FW小川航基が「見返したい」地元で復活へ

スポーツ報知
小川航基

 J2横浜FCの新体制発表会見で磐田から加入したFW小川航基に取材した。私は17年から20年まで静岡支局で磐田を担当。対面で取材をするのは約3年ぶりだった。

 磐田から横浜FCから移籍する際のコメントは衝撃だった。「高校を卒業してからの6年間、ジュビロ磐田の選手としてプレーさせてもらいました。ジュビロ磐田に関わる全ての方々が期待してくれていた活躍というのは、全くできませんでした。その点、多くの方が僕を批判したこともあったと思います。僕を嫌いな人も多かったと思います。そういう人達をプレーで見返してやりたいと思っていました。めちゃめちゃ悔しかった。期待に応えられない力の無さに、悔しさでいっぱいの6年間でした。ただ、自信は一瞬たりとも失ったことはありません。まだまだここからです。俺はやれると思っています。ジュビロ磐田では、本当にたくさんの経験をさせてもらいました。チームは変わりますが、成長した姿を見せられるように頑張ります! 本当にありがとうございました」

 こんな強い感情をこめたリリースをあまり目にしたことがなかったので驚いた。意図を聞くと「きれい事を書くことは簡単だけど、荒っぽくなったかもしれないけれど書かせてもらったった」。小川自体は決して荒っぽい性格ではない。神奈川・桐光学園時代から185センチの長身と甘いルックスを兼ね備えたスター候補は、爽やかに、ときに言葉を選びながらも報道陣や読者がほしがるようなお手本のコメントを残してくれる選手。だからこそ、正直な気持ちとジュビロへの感謝を込めて形にしたのだと思う。

 私が磐田担当だった当時は、東京五輪のエース候補と目されながらも17年5月のU―20W杯(韓国)で左ひざを大けがした直後だった。しばらくは都内でリハビリし、その後、磐田に合流した。ここから、復帰を遂げて磐田でも五輪でも活躍する-。報道陣やサポーターはそう思っていたし、当時の名波浩監督ら首脳陣の期待は大きかった。

 だが、その後は伸び悩んだ。J1ではフィジカル面などで苦戦。ひざの状態は大けが前には戻らず、違和感は残ったまま。FW川又堅碁(現千葉)からもスタメンを奪えなかった。期待の大きさとは裏腹に結果が出せず、チームも低迷。目立つ存在だけに批判も浴びていた。それでも小川は「みていてください。絶対結果出しますから」と言い続けた。

 19年夏にはJ2水戸に期限付き移籍し、17試合で7得点。19年には日本代表に初招集されE―1選手権・香港戦でハットトリックデビュー。史上3人目の快挙だった。東京五輪のFW争いはし烈を極めていたがJ2磐田でのスタートとなる20年は小川が再起をかける1年だと思っていた。開幕・山形戦で2得点を挙げたが、お互いにポストプレーを武器とするFWルキアンとは特徴が重複することなどもあり、徐々に先発の機会は失われた。昨季は24試合で1得点で、念願だった五輪にも出られなかった。J2優勝には大きく貢献できず、横浜FCへ移籍した。「(サポーターが小川への)好き嫌いもあったと思うが、誹謗中傷されたこともあった。見返したいんです」。その言葉には強い決意がにじみ出た。

 元々、小川はサッカーにはストイック。リハビリ時から地味な練習を繰り返していたし、オフの自主トレを取材したこともあるが、体をいじめ抜いていたのが印象的。1学年下の針谷岳晃(現北九州)と話したときに「航基くんはアンチが多いんですよね」と明かすも、「サッカーに対する姿勢は真面目」と、おもんぱかっていたし、私もそう思った。プロの宿命とはいえ、必要以上のバッシングだったようにも思う。

 同世代であるFW堂安律やDF冨安健洋は、東京五輪だけでなくフル代表でも活躍中。「人との比較は意味がないが、もどかしい気持ちはある。刺激にしてフル代表に選ばれるくらいの活躍したい。死にもの狂いでやる」と決意を語った。

 磐田で取材したときも「死にもの狂い」という言葉を小川から聞いたことはあまり記憶にない。どちらかというと同時期に磐田に在籍し、桐光学園の先輩である中村俊輔がよく口にする言葉。横浜FCでは再びチームメートになるが、「嫌な顔をしながら『お前きたの?』といわれた」と俊輔節で歓迎されたと言うが、考え方や精神が俊輔のような一流選手の領域に近づいたのかもしれない。まだ24歳。五輪に立てなくてもW杯に立ったり、クラブで活躍した選手はたくさんいる。地元・横浜でのリスタートで這い上がる姿に期待している。(サッカー担当・山田 豊)

コラム

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請
×