ストロング小林さんが残した最後の伝説…危篤からの脱出と病との闘い

スポーツ報知
ストロング小林さん(2020年10月撮影)

 昨年12月31日に亡くなった元プロレスラーで俳優としても活躍したストロング小林さん(本名・小林省三、享年81)の告別式が9日、東京・青梅市の青梅市民斎場でしめやかに営まれた。

 小林さんは、1940年12月25日に東京・本郷で生まれ、戦時中に青梅市へ疎開し、同市で育った。25歳の時にボディビル会場でスカウトされ国際プロレスに入門。67年7月27日に日本人初の覆面レスラー「覆面太郎」としてデビューした。その後、素顔となりリングネームを「ストロング小林」と変えてからは欧州、米国のマットを席巻。国際プロレスのトップレスラーとして活躍し。1971年6月にはIWA世界王座を奪取し名実共に国際を支えるスターレスラーとなった。

 1974年2月には新日本プロレスに引き抜かれ、3月19日には蔵前国技館で当時、禁断とされていた団体の枠を越えた日本人対決となるアントニオ猪木戦を実現。以後、新日本プロレスの看板選手として坂口征二とのタッグで北米タッグ王座を獲得するなど活躍したが、腰痛を悪化させ、84年8月26日に東京・福生市体育館で現役を引退した。

 引退後は芸名を「ストロング金剛」とし、映画、ドラマ、バラエティ番組など多方面で活躍。95年1月からは芸能活動も休止し、青梅市内の自宅で生活していたが、4年前から腰椎損傷で下半身が動かなくなり青梅市内の特別養護老人ホームで1週間のうち4日間、3日間を青梅市内の自宅で生活していた。昨夏からはすべてを老人ホームで暮らすようになった。

 通夜、告別式を取材した私は、小林さんを自宅で介護し喪主を務めた妹のさち子さん(73)から小林さんの「最後の2か月間」を聞いた。肺を患った小林さんは11月2日に青梅市内の病院へ入院したが9日に吐血。さち子さんの下へ病院から電話で「危篤です」と知らせが入った。八王子に住む姉の珠枝さん(78)ら親族に伝え、病院へ急ぐと新型コロナウイルス感染防止のため、病室への入室は家族といえども1人だけ。加えて病院が用意した防護服の着用が義務づけられた。代表してさち子さんが防護服を着用し入室に昏睡状態の兄を見舞ったという。

 医師から「危篤」を告げられた小林さんは、それから3日間、意識が戻ることはなかった。あきらめかけた4日目の11月12日、奇跡的に危機を脱し会話できるまでに回復したという。さち子さんは「普通の人なら、あの時に亡くなっていたかもしれません。やはり兄は、プロレスラーとして激しいトレーニングを重ね体を鍛え上げていましたから、その体の強さが危篤から脱出したのだと思います」と明かしてくれた。

 危篤を脱した小林さんだったが、かねてから患っていった肺を悪化させる。寝たきりの状態だったため、痰(たん)が左肺に入り込み、まるでロウのように固まって吸い出せなくなってしまったのだ。その影響で右肺には水がたまってしまう。その量は、多い日には1リットルに達したという。食事も取ることができず点滴で栄養を補給した。それでも12月24日に親族が見舞った時は、姪と会話するなど元気だった。ただ、見舞いと言ってもコロナ下のため病室に入ることは許されない。親族は別室で待機し、会話はスマートホンを使ったテレビ電話。画面越しでの病室の小林さんと話をした。この時、小林さんはかわいがっていた姪へ「明日、帰るからね」と声をかけた。

 そして、それから1週間後の12月31日午前7時21分、小林さんは81年の生涯を閉じた。結果的にこの言葉が小林さんが身内に残した最後の言葉となった。

 さち子さんが最後の2か月間を振り返る。

 「お医者さんからは、兄の肺の状態なら普通の人は、ものすごく苦しむことをお聞きしました。ところが、兄は入院中、『痛い』とか『苦しい』とか一切、言わなかったそうなんです。本当に苦しくなかったのか、我慢していたのか…それはわかりません。ただ、兄は何事にも辛抱強い人でしたから…。そういう意味では、最後まで強い人だったと思います」

 現役時代、鋼の肉体を武器にしたパワー殺法で外国人を投げ飛ばし、振り回した小林さん。猪木戦を頂点に数々の伝説をリングに刻んだ。その強さは、我々が知ることのない「最後の2か月間」も不変だった。強靱な肉体で危篤を脱し、想像を絶する苦しさが襲う肺の病にも泣き言を言わず病と闘っていた。

 プロレスラー「ストロング小林」が残した最後の伝説だった。(記者コラム・福留 崇広)

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