長崎・国見高サッカー部を率いて全国高校選手権を6度制した元監督の小嶺忠敏さんが7日午前4時24分、肝不全のため長崎市内の病院で死去した。76歳だった。情熱あふれる指導と猛練習で、元日本代表の大久保嘉人氏や平山相太氏ら70人以上のJリーガーを育てた名伯楽。昨年末に開幕した第100回大会となる選手権で長崎総科大付高を率いる予定だったが、体調不良を理由にベンチ入りしていなかった。
高校サッカー界のみならず、日本サッカー界に多大な功績を残した巨匠が静かに息を引き取った。小嶺さんが、サッカー界に尽くした76年の人生を終えた。
昨年11月14日、指導する長崎総科大付が2大会ぶりの選手権出場を決めた。12月上旬にはスポーツ報知の取材に「少しでも勝つことができたら男冥利(みょうり)。一つでも上にいく」と意気込みを語っていた。だが体調の悪化により、開催中の全国選手権で教え子たちの雄姿をベンチから見守ることはできなかった。
学校関係者によると、近年は病を押しての指導が続いていた。選手権開幕前に体調を崩して以降は意識不明の状態に。大会期間中に一度意識を取り戻したものの、再び現場に戻ることはできなかった。
半世紀以上、指導者として情熱を燃やした。「人として生きていく上での基本を、スポーツを通じて教えないといけない」。あいさつや礼儀を重んじることを第一に、勝てるチームをつくり上げた。21年限りで現役を引退した大久保嘉人をはじめ、高木琢也、三浦淳寛、平山相太ら多くの選手をJリーグや日本代表に送り出した。
1968年、新卒の教員として母校・島原商に赴任。サッカー部は部員13人からスタートした。84年に就任した国見では、選手権に21年連続で出場。決勝に9度進み、戦後最多タイとなる6度の優勝を果たした。全国高校総体などを含めた全国大会の優勝は17度。憎まれるほど強かった。
2005年には現J2・長崎の誕生に尽力し、06年から約5年間、初代社長を務めた。11年から長崎総科大付で高校サッカーの現場に戻ると、同校を全国大会の常連校へと成長させた。
選手だけでなく、自身同様に多くのプロを育てている前橋育英高の山田耕介監督や現神戸の三浦淳寛監督ら、指導者を多く輩出した実績も輝かしいものがあった。監督の肩書のまま、“生涯現役”を貫いた。今後は小嶺イズムを継承する教え子たちの活躍を、天国から温かく見守る。
◆小嶺 忠敏(こみね・ただとし)1945年6月24日、長崎・南島原市(旧堂崎村)生まれ。中学時代まではバレー部に所属し、島原商からサッカー部に転身。大商大を経て、68年に島原商サッカー部監督就任。84年に国見へと移り、戦後最多6度の優勝を成し遂げた。07年に総監督を辞任し自民党公認で参院選に出馬も落選。同年に長崎総科大付サッカー部監督就任した。