北澤豪と100万人の仲間たち<25>ワールドカップフランス大会のメンバー選考「ニヨンの衝撃」で自身の落選よりも許せなかったこと

スポーツ報知
「外れるのは、市川、カズ、三浦カズ、それから北澤」。その後「ニヨンの衝撃」と呼ばれるようになったワールドカップフランス大会の選手選考記者会見での岡田武史監督。(1998年6月2日、スイス・ニヨン)

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(53)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

 明治時代のスポーツ伝来とともに「player」は「選手」と訳された。歌手は「歌う人」、運転手は「運転をする人」、そして選手は「選ばれた人」。たしかに、いつでも「選手」には選考がつきまとう。それは、史上初めてワールドカップ本大会へと挑んだ、日本代表選手しかり。

 1998年5月末のワールドカップフランス大会直前のスイス・ニヨン合宿。ここに岡田武史監督は、登録枠の22名ではなく、25名の選手を連れてきた。アジア地区最終予選で途中招集されてから全試合に先発出場した北澤も、むろん参加していた。

 「3名多く連れてきたということは、岡田さんに迷いがあったんじゃないですかね。本来なら大会直前に競争させる必要はなく、ベストメンバーの熟練度を上げてゆく段階。22名に絞りきれていないのは、4─4─2でいくのか、3─5─2でいくのか、システムにも迷いがあったんだと思います」

 本大会グループリーグ3試合の対戦相手は、アルゼンチン代表、クロアチア代表、ジャマイカ代表と決まっていた。世界の強豪相手にアジア予選時の攻撃的な4─4─2ではなく、5バッグ気味に構える3─5─2を直前のテストマッチ3試合で試用していた。3─5─2では先発を外されていた北澤だが、まさか落選するとは考えていなかった。

 「まだ3─5─2はしっくりきていない印象でしたし、今の僕らの力を最大限に発揮するなら、予選で慣れている4─4─2のほうが勝負できるんじゃないかと。もし3─5─2でスタートするにしても、強豪だからこそ劣勢に立たされて攻めに転じなければならない場面もあるでしょうし」

 選考発表当日の6月2日、この日の正午までに落選する選手が監督室へ呼ばれることが全選手に通達された。宿舎の自室で時間が過ぎるのを、北澤は平然と待っていた。

 「正午を過ぎても電話がかかってこなかったんです。落選するのはやっぱり僕じゃなかったんだと思っていたら、しばらくして電話が鳴って、岡田さんから監督室へ呼ばれました。年齢的にベテランだし、僕以外にも数名呼ばれて、終わったメンバー選考について説明されるのかなと思っていました。ところが監督室へ入ると、呼ばれていたのは僕だけで、空気が重たくて」

 岡田監督から告げられたのは、北澤自身の落選理由だった。

 「戦術を変更(3─5─2に)していかないといけないから、そうなるとおまえのやれるポジションがなくなる、と。おまえを外すことになったとは言わずに遠まわしに説明をして、大切な話をしているのに目も合わせませんでした。選ぶのはもちろん監督で、僕が外されたんだと理解はできたんですけど、納得することはできませんでした」

 予選突破が絶望視されていたさなかに突然招集されたのが半年前のこと。そこから全試合に先発して状況を好転させ、最後の3連勝で本大会出場を決めた経緯があった。自ら手にしたワールドカップ出場の夢が、直前の選考で絶たれてしまった。

 「もし、4─4─2にすることがあるのなら、僕が必要なんじゃないですか、とまで食いさがりました。すると岡田さんは、4─4─2にすることはない、そう断言したんです。そこからはただ沈黙が続いて。最終予選からここまでの労(ねぎら)いなどいっさいなかったですし」

 落選した北澤は、すぐにある選択を迫られることになる。ベンチ外ではあるものの、ワールドカップに同行するか、それとも帰国するか。

 「岡田さんは、どっちでもいい、おまえが決めてくれと。監督になったばかりで岡田さんも難しい状況ではあっただろうけど、それはないだろと思いましたよ」

 最終予選途中で呼ばれたときも、必要だから、ではなく「自分で決めてくれ」と言われた。そして本大会直前合宿で外されるときも、同じ言葉だった。

 監督室を出て真っ先に考えたのは、落選した自分が残ることで悪影響を与えてしまいたくないという、チームのことだった。

 「これからワールドカップへ向かうチームに、精神的に平気でいられる自信がない僕が残っていたら、申し訳ないなと。だから僕は、もう、ここにはいないほうがいいだろうと帰国を決めました」

 自室へ戻って荷物を纏(まと)める前に、彼には落選を報告しなければならない相手がいた。同じクラブ、ヴェルディ川崎に所属する先輩で、日本代表でも「ドーハの悲劇」や「ジョホールバルの歓喜」をともに経験し、同じ夢を追いかけてきた三浦知良だ。

 「カズさんの部屋に行くと、怒った表情で荷物整理していたんです。そして一言だけ、『キー、行くぞ』と。それですべてが理解できました」

 外されたのは北澤と、高校在学中で17歳の市川大祐、そして、三浦知良の3名だった。

 「僕が外されたことより、カズさんが外されていたことのほうが許せませんでした。カズさんには修羅場をくぐってきた経験がある。しかも、予選突破に貢献しただけではなく、日本サッカー界の功労者です。Jリーグの発足やその後の盛りあがりも、日本代表の強化やワールドカップ出場も、カズさんがいたからこそ可能だったと断言できます。カズさんは、ぜったいにフランスへ連れていかなければならない選手でした」

 「外れるのは、市川、カズ、三浦カズ、それから北澤」

 岡田監督のあまりに有名になった落選発表記者会見を見ることなく、北澤は三浦とともにニヨンを離れた。

 この「ニヨンの衝撃」から23年が経つ。三浦知良は54歳になりながらも、いまだに「選手」でありつづけている。

 北澤に、こう問いかけてみた。

 ─もし、あのときワールドカップのメンバーから外されていなければ、選手でいつづけることに、ここまでこだわることはなかったのでは。

 「そうでしょ」

 北澤は大きく頷(うなず)いた。

 「あのときの思いを引きずっているっていうのは、きっとある。ワールドカップに出ていたら、選手として、全然違う終わり方をしていたんじゃないかな。それに、カズさんがワールドカップを体験していたら、それを後輩にどう伝えていけたのかと想像すると、その後の日本サッカー界に与えるはずだった影響力も、とても大きかったと思います」

 けれども、北澤はこうも言う。

 「だけど、カズさんはワールドカップには行けはしなかったけれど、選手として、長い時間をかけて、それ以上の大切ななにかを、多くの人々に与えてくれているんじゃないかな」(敬称略)=続く=

 ◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

 〇…北澤氏は年末年始も大忙しだ。26日からは鹿児島県で開催される全日本U―12選手権(報知新聞社後援)のテレビ解説で、日本の将来を担う子どもたちにエールを送る。また、28日からは全国高校サッカー選手権でもテレビ解説。第100回の記念大会を鋭い視点で捉え、盛り上げる。このほか、チャリティーイベントへの参加など、「サッカー界の顔」としてハードに動き回る。

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