没後15年「週刊ファイト」I編集長の“最後の弟子”が追悼する“感覚のプロレス”とは…金曜8時のプロレスコラム

I編集長を追悼する元「週刊ファイト」記者の橋爪哲也氏
I編集長を追悼する元「週刊ファイト」記者の橋爪哲也氏
I編集長こと元「週刊ファイト」編集長の井上義啓さん(橋爪哲也氏提供)
I編集長こと元「週刊ファイト」編集長の井上義啓さん(橋爪哲也氏提供)

 プロレスの鉄人はルー・テーズだが、“プロレスの哲人”と呼ばれた元「週刊ファイト」編集長の井上義啓さん(享年72)が亡くなってから13日で15年になる。元「週刊プロレス」編集長のターザン山本氏(75)や元「週刊ゴング」編集長のGK金沢克彦氏(59)の師匠で、2006年9月に「週刊ファイト」が休刊するのを見届けるかのようにその12月に亡くなった。

 I編集長と呼ばれた井上さんは、初代編集長として大阪発行のタブロイド紙「ファイト」(新大阪新聞社)を1967年に創刊。東京の「月刊プロレス」「月刊ゴング」に対抗すべく、プロレスを哲学する“活字プロレス”を打ち出した。ファンの意見を聞いて深読みするコラム“喫茶店トーク”は名物だった。「ファイト」と言えばアントニオ猪木偏重主義。I編集長は”猪木弁護士会会長”とよばれる猪木論の第1人者で、猪木信者の直木賞作家・村松友視氏(81)にも影響を与えた。

 日本プロレス時代はジャイアント馬場に次ぐナンバー2だった猪木。例えば1969年12月、NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアを迎えてのビッグマッチ。東京の最終戦で世界王座に挑戦する馬場に対して、猪木は先兵として大阪で挑戦するという図式。大阪の「ファイト」が猪木に肩入れするのは当然のことだった。

 亡くなった時もしばらく公表されず、ひっそりと逝ったI編集長。“最後の弟子”だったフリーライターの橋爪哲也氏(58)に話を聞いた。1990年、I編集長晩期の「週刊ファイト」に社員として入社した橋爪氏。「I編集長の下にいたのは2年あまり。『誰を取材してこい』、『何をしてこい』などと指示されることはありませんでしたが、『現場に行ってからネタを探してるようじゃダメ。テーマを持って現場に向かえ』と教えられました。『プロレスとは感覚なり』がI編集長のプロレス観でしたね」

 心に残っている“I編集長語録”は…。

 「プロレスから何かを学ぶなんてことはなくてもいい。ただ猪木を長く見てきたからには、あの強靭な精神力だけは見習わなければならない」

 「事実と真実は異なる。たとえそれが真実であろうとなかろうと、こうだと思ったことはその人にとっては真実となる」

 「ファイト」が休刊してからは“ファイト野郎”と名乗って「週刊プロレス」などに寄稿している橋爪氏。「I編集長的、週刊ファイト的な考え、見方は、自然と身についているなぁと感じます。そういう意味では、I編集長の遺伝子を受け継いでいるのかもしれないですね」と言う“最後の弟子”は、猪木氏が去り“活字プロレス”とは無縁になった新日本プロレスを“感覚のプロレス”で追い続けている。(酒井 隆之)

I編集長を追悼する元「週刊ファイト」記者の橋爪哲也氏
I編集長こと元「週刊ファイト」編集長の井上義啓さん(橋爪哲也氏提供)
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