北澤豪と100万人の仲間たち<24>ドーハの悲劇とジョホールバルの歓喜をピッチで体験したわずか4人が味わった安堵感

スポーツ報知
北澤豪(前列左から3人目)は、キャプテン井原正巳(同4人目)、決勝点を決めた岡野雅行(左端)らと、ワールドカップ本大会初出場を決めて歓喜した(1997年11月16日、マレーシア・ジョホールバル)

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(53)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

 「生みの苦しみ」という慣用句がある。

 1997年11月16日、ワールドカップフランス大会アジア地区第3代表決定戦でイラン代表と対戦した日本代表は、まさにそれを体験した。彼らが生みだそうとしたのは、アジアから世界へと突破する、日本サッカーの新たな歴史だった。

 最終予選アウェーの韓国代表戦から2連勝の日本代表は、4−4−2のフォーメーションを継続。復帰後全試合で先発出場の北澤豪を、この決定戦でも中盤のトップ下に配して序盤から攻勢をかけた。

 「やはりこの試合も中盤の動きを流動的にして、右のヒデ(中田英寿)や左の名波(浩)が前を向いてパスを送れるようにスペースを作ることを意識して動き回りました。この中盤の可変は、この頃にはかなりコンビネーションの精度も高まって、お互いの動きを予測して効果的にプレーできるようになっていました」

 試合が動いたのは前半39分、中田のスルーパスから、中山雅史が相手ゴールキーパーの脇を抜くシュートで先制した。

 「ゴンちゃんのゴールで前半は1対0で折りかえせました。だけど、このままでは終わらない雰囲気が漂っていたので、ハーフタイムも気が緩むようなことはまったくありませんでした。案の定、後半はイラン代表にかなり攻めたてられました。前日は車椅子に乗っていた(コダダド)アジジと、ドリブラーで本来は右ウィングバックの(メフディ)マハダビキアと、そしてエースの(アリ)ダエイの変則3トップによる反撃は強烈でした」

 後半開始直後の25秒、イラン代表にいきなり追いつかれる。ダエイのシュートのこぼれ球を押しこんだのは、前日にはギプス姿だった、あの「アジア作戦」のアジジだった。さらに後半14分にはヘディングシュートをダエイにも決められて逆転された。

 「シュートを打たれたとき、キーパーの(川口)能活(よしかつ)になんとかして止めてくれと思いましたけど、『マイアミの奇跡』(1996年アトランタオリンピックにおける日本五輪代表が優勝候補のブラジル五輪代表を1対0で下した大番狂わせの通称。その試合で川口は相手チームから計28本ものシュートを浴びながらゴールを許さなかった)みたいなことがそうたびたびあるわけもないですしね」

 後半18分、劣勢のなか、岡田武史監督が動く。2トップの三浦知良と中山に代えて城彰二と呂比須ワグナーを同時投入。同時に3バックへと変更する積極策によって同点ゴールが生まれる。

 後半31分に中田のクロスボールを城がヘディングシュート。これが決まって試合は2対2の同点のまま、得点が決まった時点で試合終了となるゴールデンゴール方式の延長戦に突入した。

 ここまで北澤は攻守に躍動した。とりわけ後半は、三浦の左からのクロスをゴール前で受け、ダイレクトで中田の決定的なシュートにつなげるなど好機もいくつか演出した。だが延長前半開始と同時に、彼はベンチへと退くことになった。その交代相手を知ったとき、少なからず驚いたという。

 「5人目のFWの岡野(雅行)と交代だと。岡野は最終予選で一度も出場機会を与えられていなかったんです。とてもいいやつなんですけど、あいつなりに考えて話すことがどこか焦点が合っていないようなところがあって、チーム内ではボケとして、キャラは立っていました。こんな重要な場面で岡野かよ、と思いましたけど、それは僕が言ってもしょうがないこと。『なんとかしてこいよ』とあいつに言ってピッチへ送りだしました」

 「野人」と称されるその岡野が俊足を活かして何度も相手ゴールに迫った。だがキーパーと一対一になる絶好機でシュートを打たず、走りこんできた中田へのパスを選択してゴールにならなかった。さらなる好機に今度はシュートを放ったものの、ゴールのはるか上に打ちあげてしまった。

 「自分でシュートを打たずにヒデにパスしたときには、みんなベンチでドリフみたいにズッコケました。決定的なシュートを外したときには、誰かがベンチから『交代の交代だよ、もう1回ベンチに戻ってこい!』と。だけど僕は、延長開始早々に岡野とは誰も思わなかったけど、その意外な采配が的中しているなと思いながら見ていました。相手選手が疲労困憊のところで、あれだけ裏へ走れるFWは脅威だし、そこにスルーパスを通せるヒデも、岡野のようなタイプを望んでいたんじゃないかな」

 ゴールがなかなか決まらず、PK戦にもつれこむまであと2分となった延長後半13分、とうとうシーソーゲームに決着がつく。

 呂比須が中盤で奪取したボールを、中田がドリブルで持ち上がってペナルティーエリア前からミドルシュートを放った。相手選手が弾いたルーズボールに走りこみ、スライディングしながら右足でゴールに押しこんだのは岡野だった。

 「その瞬間、僕は試合に夢中でルールを忘れていたというか。ゴールデンゴール方式なのかどうかを確かめなければと思ったら、岡田さんが先に岡野のもとへ走っていたんです。それで僕も追いかけて走りながらも、勝ったんだよな、本当に勝ったんだよなって」

 ワールドカップの地区予選でゴールデンゴール方式が採用されたのは、このフランス大会と日韓大会のみ。この方式でワールドカップ本大会出場を決めたのは、後にも先にもこの試合に勝った日本のみだ。1954年のスイス大会予選に参加して以来43年目、実に10回目の挑戦での出場権獲得となった。

 北澤がピッチへと走って抱きあった選手は、キャプテンとしてこのチームを牽引し、そして4年前の前回ドーハでともに悔し涙を流した井原正巳だった。

 「カズさんもゴンちゃんも遠くへ走っていて、井原がいたので。ドーハからの4年間、長かったよな、そんな気持ちでした。4年前は、あと数秒というロスタイムで失点し、時間の問題で出場を逃しました。それを4年後には、延長戦という時間を有効に使って出場を決めました。あの数秒間の悔しい記憶を拭うために、4年間もかかったんだな、つくづく、サッカーって大変だな、そう思いました」

 「ドーハの悲劇」と「ジョホールバルの歓喜」を、どちらもピッチで体験したのは、三浦、中山、井原、そして北澤の4人のみ。だがジョホールバルまで足を運んでくれた観客のなかには、この4年間をともに歩んでくれたサポーターが大勢いた。

 「加茂さんが更迭されたり、予選突破を絶望視されたりしても、最後まで諦めずに応援してくれたサポーターと、感動をわかちあいたかった。感謝をこめて場内を一周して手を振り続けましたね。だけど競技場からホテルへと向かうバスのなかでは、もう、騒いでいる選手はいませんでした。みんな、ほっとした思いが強かったんじゃないかな」

 この夜、アジア予選を突破はした。ただし、予選突破とワールドカップ本大会出場は、選手にとっては同義ではない。

 この夜より約半年後、ワールドカップ本大会を迎える直前、衝撃の発表を、北澤は伝えられることになる。(敬称略)=続く=

◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

〇…北澤氏が大会アンバサダーを務める「2021フジパンCUP  U-12サッカー大会」が全国各地で熱戦を展開している。11月に北信越大会が新潟県で、今月は4、5日に中国大会が鳥取県で開催され、11、12日には東北大会(宮城県)、26、27日には関東大会(群馬県)が開催される。北澤氏は「U-12世代は個人の能力、組織的なプレーなど様々な部分を大きく伸ばす大事な時期」と捉え、「年々、選手たちのレベルが上がっていることを実感しています」。大会を通して、集中や努力の大切さを呼びかけている。

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