藤波辰爾「50年の名勝負数え唄~WRESTLING JOURNEY~」<19>大流血のチャボ・ゲレロ戦【後編】

スポーツ報知
藤波辰爾

 プロレス界のレジェンド藤波辰爾(67)が今年、デビュー50周年を迎えた。16歳で日本プロレスに入門し、1971年5月9日に岐阜市民センターでの新海弘勝戦でデビューした。スポーツ報知では半世紀に渡る数々の名勝負を藤波に取材。「藤波辰爾、50年の名勝負数え唄~WRESTLING JOURNEY~」と題し、毎週金曜日に連載する。また、今回の連載はデビュー50周年プロジェクト「IMAGINATION PROJECT」と連動し「ドラディション」公式You Tubeチャンネル「DRADITION TV」で藤波が名勝負を振り返るインタビュー動画を配信する。19回目は「大流血のチャボ・ゲレロ戦【後編】」。

 1978年10月20日、大阪・寝屋川市体育館でのチャボ・ゲレロ戦。WWWFジュニア王座10度目の防衛戦は、テレビ生中継で初のメインイベントだった。放送席には、ゲスト解説でアントニオ猪木がリングを見つめていた。

 「今までは僕は、ずっとセミファイナルで必ず最後のメインイベントに猪木さんがいる状況だった。ところが、この日は僕がメインで猪木さんが僕の前に試合をした。僕の後には、誰もいないわけで、今まで感じたことのないプレッシャーはあった。しかも、放送席で猪木さんが見ている。試合前は猪木さんの視線が気になっていた。ただ、ゴングが鳴れば、そんなものはすべて吹き飛んで試合に集中した」

 初めてのシングルマッチでのメイン。猪木が見つめるリング。重圧はあったが、試合が始まったらチャボとの闘いに没頭した。試合は61分3本勝負。1本目をチャボに奪われた。波乱は2本目に待っていた。場外に落ちたチャボへめがけて飛んだ必殺技のドラゴンロケットをよけられたのだ。脳天から客席のパイプ椅子に突っ込んだ。次の瞬間、頭からおびただしい出血が起こったのだ。

 「1本目を取られて、奪い返さないといけない一心でテンションが上がっていた。場外にチャボが落ちた時、ここぞとばかりにドラゴンロケットで飛んだんだけど…。これをものの見事にチャボがよけた。闘牛場で例えればマタドールがチャボで僕が闘牛。僕は闘牛のように突っ込んでチャボが華麗にかわした感じだった」

 敵がよけた姿は目に入った。

 「チャボがかわしたのは分かったけど、こっちは飛んでいるからもうどうしようもない。一瞬、あっと思ったけど、気づいた時には目の前がパイプ椅子。止められるはずもなく、そのまま突っ込むしかなかった。たぶん、リングから3メールとか4メートルぐらいは飛んだと思う。パイプ椅子がクッションになるかと思ったけど、そんなことはなくて気がついたら大流血だった」

 すさまじい流血のハンデを負いながらも2本目を奪取。そして、決戦の3本目。コブラツイストでチャボを捕らえるとギブアップを奪った。

 「流血したけど、意識はしっかりしていた。最後のコブラは、絶対に放さない執念だけで絞った。ただ、力んでいるから血が余計に流れてね。額から落ちる血がチャボの体に落ちて、その血が糸を引いていたのは今も鮮明に覚えている。マットが血で水たまりみたいになったけど、そんなことを気にする余裕はない。とにかく、コブラで決めることだけを考えていた」

 大流血のコブラツイスト。10度目の防衛に成功した激闘は、今も語り継がれる藤波のプロレス史に残る名勝負となった。

 「今、振り返ってもいい試練となった試合だった。チャボは百戦錬磨で様々な国でいろんな試合を経験している。そんな相手とあれだけの試合ができたことが自信になった」

 失敗したドラゴンロケットだが、今はプラスに考えている。

 「ドラゴンロケットは、凱旋帰国してからやり始めた技で僕にとっては、まるで水のないプールへ飛び込むようなもので恐怖しかなかった。ただ、あの当時は、ドラゴンロケットをやれば百発百中。そういう試合が続くとお客さんの中では、僕が飛べば必ず決まるという安心感みたいなものが生まれていた。だけど、あの試合でチャボがよけたことで、そんな雰囲気が覆った。ドラゴンロケットをやることは、常に一か八かの危険を伴うことを思い起こさせてくれた」

 そして、こう続けた。

 「デビュー50年の中であのチャボ戦は、僕自身の中でトップ3に入る試合だった」

 チャボとの激闘を経た藤波。年が明けた1979年。再びプロレスの厳しさを教えられる。それが師匠の猪木との再戦だった。

 (続く)

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