【UWFとは何か】<10>前田日明のもとに集まった“父”藤原喜明と“弟”高田伸彦…そして“兄”佐山サトルがやって来た

スポーツ報知
当時の図式が一目瞭然の「UWF無限大記念日」パンフレットⒸクエスト

 前田日明は、「出場候補」と予告されていたアントニオ猪木、タイガーマスクら豪華メンバーが集まらなかった新団体のリングで、新弟子時代にがむしゃらにぶつかった藤原喜明とスパーリングがしたかった。藤原は“問答無用のテロリスト”ではなく、“プロレスの神様”カール・ゴッチ道場で関節技をマスターした、プロフェッショナル・レスラーというのが本当の顔だった。

 1980年、31歳だった藤原は、アントニオ猪木の一連の異種格闘技戦でスパーリングパートナーを務めた功績を評価され、志願した米国行きが認められた。遠征で箔を付けてスターとして凱旋帰国するためではなく、目的はゴッチ道場。米フロリダのゴッチ宅近くにアパートを借り、半年間にわたって関節技を修行した。この「ゴッチ教室」をイラストにして記録した「藤原ノート」が後にUWFの教科書になった。帰国後に前田や新弟子として入門していた高田伸彦(現延彦)を実験台にして研鑽(さん)を重ねた。

 藤原は道場での前田との日々を振り返る。「スパーリングとは裸と裸の会話なんだよ。『負けてたまるか』、『ぶち殺してやる』から始まり、チャンスをやって取らせたり、どうやって逃げるかを試したりね。そういう時間の積み重ねで、ツーカーみたいな、信用みたいなものができるんだよな」

 前田は「藤原さんは、うちの父親そっくりなんですよ」と10歳上の藤原を新団体の父として頼った。藤原、前田、高田は「藤原一家」「藤原組」と称されるほど、親密な家族のような関係だった。1984年4月のUWFオープニング・シリーズ(11~17日)には、新日本から高田が全5戦に派遣された。デビューして2年の高田は旗揚げのパンフレットで「これまでに身につけたことを総動員してガムシャラにぶつかっていくつもりだ。兄貴(と思っている)の前田さんと、将来のプロレス界を背負うつもりで頑張っていく」とコメントしている。

 最終戦の4月17日、東京・蔵前国技館大会には藤原がやって来て、メインイベントで前田と一騎打ち。序盤は渋いグラウンドの攻防を見せた。当時はまだ技の名前も一般化していなかった脇固めやアキレス腱固め、クルック・ヘッドシザース。そして柔道技の腕ひしぎ十字固め、三角絞め…。流れるような関節技の応酬で通をうならせた。最終的には流血戦となって観衆を沸かせることも忘れなかった。場外乱闘から両者フェンスアウトの引き分け。さらに延長戦で盛り上げて、前田のジャーマンスープレックスを藤原が足を掛けて崩し、同体で後ろに落ちて両者KOという結末だった。

 この歴史的一戦は、藤原がテレビ朝日の契約選手だったため、旗揚げ戦をビデオ化した制作会社のクエストも記録できなかった。テレビ朝日はこの結果を古舘伊知郎アナウンサーが口頭で伝えただけだった。

 UWF蔵前大会から2日後の4月19日に、藤原と高田は新日本の蔵前大会で正規軍に加わり、維新軍との5対5勝ち抜き戦に出場し団体勝利。アントニオ猪木、藤波辰巳(現辰爾)、木村健吾(現健悟)とバンザイして団結をアピールしたが、6月になって2人そろってUWFへの移籍を発表する。その船出となる「UWF無限大記念日」(7月23、24日・後楽園ホール)には初代タイガーマスクの佐山サトルがザ・タイガーとしてやって来た。(酒井 隆之)=つづく、敬称略=

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