生え抜きでない真弓明信がなぜ監督にまでなれたか…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<20>

スポーツ報知
阪神監督時代の真弓明信氏を激励する安藤統男氏(2009年11月10日撮影)

 プロ野球のチームはどこも、その球団のスター選手や長い間チームに貢献した選手を監督に据えることが多いようです。監督は球団の歴史や伝統を継いでいく存在だからでしょう。巨人などは特にこれが顕著で、他球団出身者が監督になった例はないと思います。

 しかし、巨人以外の球団ではそれは当てはまりません。阪神は野村克也、星野仙一両氏のように、現役時代に阪神に在籍したことがない人が監督を務めた例があります。また、広島からFAで移籍してきた金本知憲や、中日からトレードで来た矢野燿大など、生え抜きではない監督もいます。

 真弓明信もその1人です。彼は1978年オフ、クラウンライターを買収した西武との間で成立した2対4のトレードで来ました。田淵幸一、古沢憲司―竹之内雅史、若菜嘉晴、竹田和史、真弓の大型トレードです。クラウンライター最後の年にはレギュラーの地位を取りつつあった若手の有望株でした。

 期待通り、阪神移籍後はさらに飛躍。長打力を備えた1番打者として活躍しました。印象深いのは174センチの小柄な体ながらマッチョで、1キロのバットを軽々と振っていたこと。広い甲子園でも本塁打を量産。私が監督2年目の83年には首位打者にも輝きました。

 福岡県大牟田市出身。九州人の気骨を秘めた男でした。「俺は他球団から来た選手」という思いがどこかにあったのでしょう。生え抜きの掛布雅之、岡田彰布を常に立てていました。移籍先のチームで監督にまでなったのは、その立ち居振る舞い、人間性が球団上層部に認められたからかもしれませんね。

 その真弓と柳川高校(当時は柳川商)の同期生、若菜嘉晴は明るく豪快で、捕手タイプではありませんでした。プレーも捕手というよりも内野手。センスを感じさせる選手でした。内野ノックをすると、ミットさばきも送球も軽やか。内野手をやっていても成功していたでしょう。座ったまま一塁へけん制をしたり、二塁へ送球したりしたプレーは彼ならではでした。

 思い出深い九州人がもう1人います。長崎出身の池辺巌です。私が1軍の守備走塁コーチをしていた75年にロッテから移籍してきました。彼もまたセンスのいい選手でした。ある試合、吉田義男監督が右中間寄りに守っていたセンターの池辺の守備位置が気になり「もっと左に守らせた方がいいんじゃないか?」と言って来ました。守備から帰って来た池辺に守備位置の真意を聞くと「打者のスイングを見てたら、右方向に打ってきそうな予感がしたので…」と答えました。私も現役時代、自分の判断で守備位置を変えたことがあります。守っていると勘が働く時があるのです。その感性を大事にしたかったので、池辺にはあえて注文はしませんでした。彼は4年間しか阪神に在籍していないのですが、私にとっては印象の強い選手です。

 さて、ここまではトレードで来た選手のことを書いて来ました。次回は私自身のことに触れます。まさか私が阪神以外のユニホームを着るなんて考えもしませんでしたから。次回はそれが現実になったヤクルトでのコーチ生活のことを書きます。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は11月15日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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