駿河台大の徳本一善監督、感謝の思い今も…箱根駅伝初出場へと導いてくれた2人の恩人…インタビュー

水色と黒のタスキを披露する駿河台大の徳本一善監督
水色と黒のタスキを披露する駿河台大の徳本一善監督

 第98回箱根駅伝予選会(23日)で8位通過し、悲願の初出場を決めた駿河台大の徳本一善監督(42)がスポーツ報知のインタビューに応じ、就任から10年を振り返りつつ本戦(来年1月2、3日)への意欲を明かした。法大時代、箱根駅伝史上初めて金髪&サングラスの姿で走ったとされる個性派監督は数々の「徳本伝説」の思い出も披露。そして、29歳で亡くなった広島・沼田高時代の恩師の三浦学さん。4年前に亡くなった駿河台大前理事長の山崎善久さん。恩人へ感謝の思いを語った。(取材・構成=竹内 達朗)

 箱根駅伝史上、44校目の出場校として名乗りを上げた駿河台大の徳本監督は胴上げされ、高々と宙を舞った。駅伝ファンの間では、その足元が注目された。多くの選手がレースで使用するナイキ厚底シューズ「エアズームαフライ」だった。

 「選手の指示で走り回るので、少しでも速く走れるように、と。チーム一丸で予選会を戦いました」

 指導者となって10年。チームをゼロから作り上げ、箱根駅伝出場まで導いた。

 「就任当初は14年の90回記念大会で初出場を狙っていましたが、そんなに甘くなかった。でも、10年間、やり続けて良かった」

 10年前の予選会は27位。当時のチームは実力も意識も低かった。

 「酒、たばこ、パチンコは当たり前でしたね」

 当時は30代前半。チームで一番速かった監督は一緒に走りながら指導した。自宅は選手寮と同じ埼玉・飯能市内にあるが、ほぼ毎日、寮内の監督室に宿泊。チームは少しずつ成長し、箱根にたどり着いた。

 「就任当初の部員からも祝福の電話、メッセージがたくさん来ました。すごくうれしかった。彼らも喜んでくれていた。『お前、パチンコ行っていただろ!』と突っ込みましたけどね」

 もちろん、今のチームは、たばこ、酒、パチンコとは無縁。毎晩10時にはスマホを回収するルールもある。厳格な寮生活についていけず、退部する選手もいる。その時、お互いに納得した形で進む道を分かれる。

 「夜遅くまでオンラインゲームをするより、早く寝て体を休ませたほうが強くなる。科学的に証明されているし、チームのルール。ゲームを長くやりたい、という選手には『君の考えは尊重する。夜遅くまでゲームをしても強くなれるチームがどこかにあるかもしれない。君はそのチームで走った方がいい』と言います」

 あくまで選手の自主性を尊重する。初めて挑む箱根駅伝。チーム目標は選手の話し合いによって決まる。

 「目標は選手ミーティングで決めろ、と言っています。それが5位なのか、シード権(10位以内)なのか、あるいは20位なのか。僕は、選手が決めた目標を達成できるようにアプローチしていくだけです」

 法大時代、箱根駅伝史上初めて茶髪とサングラスの姿で走った選手とされ、多くの“徳本伝説”を残した。2年時は1区で区間賞。その年、2区でも坪田智夫(現法大監督)が区間賞を獲得。「オレンジエクスプレス旋風」を巻き起こした。

 「2学年上の坪田さんの存在が大きかった。主将だった坪田さんは、自由気ままな僕の扱いには苦労したと思いますよ。実際、衝突もあった。でも、僕は坪田さんの姿勢に影響を受けることは多かった。選手寮と練習グラウンドは4キロほど離れていて、ほとんどの選手が原チャリかチャリンコで通っていた。僕は原チャリでしたね。坪田さんだけは走って通っていた。そして、どんどん強くなった。そのうち、走って通う選手が増えた。僕もそうです。その時、監督の言葉よりも選手の行動がチームに響くと知った。それは今、指導者として生きています」

 坪田先輩が卒業後、2区を担った。3年時、日本人トップの区間2位の好走で首位に。その直後、テレビインタビューで新春のお茶の間に衝撃を与えた。頭の上から装着するウルトラマンのような奇抜なデザインのサングラスで登場した。

 「日本テレビのスタッフに『本当にこの格好でいいんですか?』と聞かれましたけど『むしろ、この格好でなければ出ません』と答えましたよ」

 “徳本伝説”の裏話を楽しそうに明かす。しかし、4年時は暗転。2年連続で2区を走ったが、右ふくらはぎ肉離れで途中棄権した。

 「5キロ過ぎに右ふくらはぎの筋肉が切れた。『バチッ!』という音が聞こえた。遠ざかっていく他校の選手の背中がスローモーションに見えたことを今でも覚えています」

 必死に腕を振ったが、ペースは落ちる一方。レースを止めようとする成田道彦監督を何度も振り切って走り続けたが結局、7・3キロ地点で止められた。大手町のスタートから28・6キロ地点での途中棄権は大会史上最短記録として今も残る。悪夢の第78回箱根駅伝から20年。監督として箱根路に戻る。

 徳本監督には墓前に報告したい恩人が2人いる。一人は広島市立沼田高時代の恩師、三浦学さん。広島・世羅高では青学大の原晋監督(54)と同期で日体大では箱根駅伝に3回出場。卒業後、郷里に戻り、教員を務めながら選手としても活躍した。しかし、徳本監督が1年生だった1995年8月、交通事故で亡くなった。まだ29歳だった。

 「あの夏は泣いた記憶しかない。高校では5か月だけですけど、三浦先生にはたくさんのことを教わった。特に印象に残っている言葉があります。『速さだけを求めるなら自転車に乗ればいい、車に乗ればいい。徳本は速いだけではなく、人を引きつける走りをしてほしい』と。その言葉を忘れたことはありません」

 三浦さんは「永遠の先生」であり、指導者としての「道しるべ」となっている。

 「亡くなった三浦先生と同じ年になった時『オレは何て幼稚なんだろうか』と思った。今、42歳になりましたけど、やっぱり、29歳の三浦先生の方がずっと大人に思える。広島に帰ったら、お墓参りに行きます。三浦先生は生きていたら、何て言ってくれるかな、と考えますね」

 もう一人の恩人は、駿河台大の山崎善久前理事長。駅伝部を強化し、徳本監督を招へいした。

 「(漫画の)釣りバカ日誌みたいな関係でしたよ。山崎理事長は大学トップで、僕はただの職員なのに、よく2人だけで話をした。スーさん(社長)がハマちゃん(平社員)に釣りを教えてもらうような感じで、いつも、山崎理事長は僕に陸上の話を聞いてきました」

 就任から5年目。16年の予選会で19位に終わった後、また、2人で会った。

 「『いつでもクビにしてください』と申し出たら、山崎理事長は『大学のバックアップが十分でなく、申し訳ない』と頭を下げられた。この時、絶対に駿河台大を箱根まで連れていきたい、と強く思った」

 結局、徳本監督は留任したが、17年になると、山崎理事長と会えなくなった。17年8月、肺がんのため、亡くなった。50歳だった。

 「亡くなる直前まで励ましのメールを送ってくれた。僕もチームの様子や結果を返信していました。スマホには山崎理事長のメールが残っている。今でも、よく見ていますよ。山崎理事長が、元気なうちに箱根駅伝に出場したかった」

 波乱万丈の人生を生き抜いてきた徳本一善、42歳。文字通り、山あり谷ありの箱根路に全力で挑む。2022年1月2日、3日。“徳本伝説第2章”が始まる。

 ◆青学・原監督評価

 箱根優勝5回を誇る青学大・原監督は、同じ広島出身の徳本監督の手腕を高く評価する。「今では当たり前になったサングラスを20年前に使った。先見の明がありその姿勢が指導者としても生きている」と話した。

 徳本監督の恩師、三浦さんは世羅高時代の同級生。「3年時の全国高校駅伝でアンカーを務め、30秒あった2位チームを抜いて準優勝の立役者になった。我々の間で伝説になっています」と原監督は語る。三浦さんは29歳で急逝。「面倒見のいい男だった。徳本監督が頑張っていることを広島の空の上で喜んでいると思う」と旧友に思いをはせていた。

 ◆徳本 一善(とくもと・かずよし)1979年6月22日、広島市生まれ。42歳。美鈴が丘中1年から陸上を始め、3年時に全国大会で1500メートル2位。広島市立沼田高3年時に全国高校総体1500メートル2位。98年に法大入学。2002年、日清食品に入社。03、04年の日本選手権5000メートル連覇。12年4月、駿河台大駅伝部監督に転身。家族は妻と1男1女。長男・陽(ひなた)は群馬の強豪、東農大二高1年の長距離選手。

 ◆取材後記

 昨年1月、中学校教師が休職制度を利用し、駿河台大に編入するという情報が入った。飯能市の練習場に赴き、徳本監督に確認すると「4月まで記事にしてはダメですよ」と前置きした上で現4年で31歳の今井隆生を紹介してくれた。当時、現役教師だった今井は週末に駿河台大で練習していた。その晩、3人で居酒屋に行った(思えばコロナ禍直前の平和な時代だった)。

 ある程度、酒が入った後のことだった。徳本監督は今井に「在学中の2年間は一緒に居酒屋に行くことはないからな」と通告。今井は「分かっています」と即答した。直後、徳本監督は付け加えた。「中学校の先生に戻ったら、また、一緒に飲みに行こう」。今井は「よろしくお願いします」とやはり即答した。筋が通った師弟の会話に感心した。そして、ずうずうしく言わせてもらった。「その時は、私も参加させてくださいよ」

 来年の4月。コロナ禍が落ち着いて、徳本監督と「今井先生」と酒が飲めることを願っている。(竹内 達朗)

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