駿河台大・徳本一善監督、波乱万丈インタビュー・ロングバージョン

スポーツ報知
駿河台大・徳本一善監督

 第98回箱根駅伝予選会(10月23日)で8位通過し、悲願の初出場を決めた駿河台大の徳本一善監督(42)がスポーツ報知のロングインタビューに応じ、就任から10年を振り返りつつ本戦(来年1月2、3日)への意欲を明かした。法大時代、箱根駅伝史上初めて金髪&サングラスの姿で走ったされる個性派監督は数々の「徳本伝説」の思い出話も披露。そして、29歳で亡くなった広島・沼田高時代の恩師の三浦学さん。4年前に亡くなった駿河台大前理事長の山崎善久さん。恩人へ感謝の思いを語った。(取材・構成=竹内 達朗)

 箱根駅伝史上、44校目の出場校として名乗りを挙げた駿河台大の徳本監督は、選手によって胴上げされ、高々と宙を舞った。駅伝ファンの間では、その足元が注目された。多くの選手がレースで使用するナイキ厚底シューズ「エアズームαフライネクスト%」だった。

 「選手のサポートや指示で走り回るので、少しでも速く走れるようにαフライを履きました。出場した選手だけではなく、控え選手、マネジャー、コーチ、スタッフ、チーム一丸で予選会を戦いました」

 2011年11月、日清食品グループに所属しながら駿河台大陸上部の兼任コーチに就任。翌12年4月、陸上部から駅伝部が分離独立したタイミングで、日清食品グループを退社し、駅伝部監督に昇格した。指導者となって、ちょうど10年。チームをゼロから作り上げ、箱根駅伝出場まで導いた。

 「長かったような、短かったような…。就任当初は、出場枠が増枠される2014年の90回大会で初出場を狙っていましたが、そんなに甘いものではありませんでした。でも、10年間、やり続けて良かった」

 徳本監督がコーチとして就任した2011年の予選会は27位。通過ラインとは54分23秒の大差があった。当時のチームは実力も意識も低かった。

 「酒、たばこ、パチンコは当たり前。漫画みたいな世界でした。『パチンコは週3回から週1回にしないか?』最初の頃は、そんな指導をしていましたね」

 当時、徳本監督は30代前半。チームで一番、速かった。一緒に走りながら学生を指導。自宅は選手寮と同じ埼玉・飯能市内にあり、車で10分ほどの近い距離にあるが、この10年間、ほぼ毎日、寮内の監督室に宿泊している。2007~09年には日清食品グループの選手として活動しながら順大大学院で運動生理学を学んだ徳本監督は熱意に加え、科学的なアプローチでチームを少しずつ強くした。2016年には駿河台大史上初の箱根駅伝ランナーとして平賀喜裕(当時3年)を関東学生連合に送り出した。そして、今回、ついにチームとして初出場を決めた。

 「予選会を突破した後、就任当初の部員からも祝福の電話、メッセージをたくさんもらいました。すごくうれしかった。彼らも喜んでくれた。『お前、たばこ吸っていただろ、酒飲んでいただろ、パチンコ行っていただろ』と、突っ込みましたけどね」

 もちろん、今のチームは、たばこ、酒、パチンコとは無縁だ。選手の意識は高い。

 「炭酸ジュースを一本でも飲むと、周囲のチームメートが注意します。監督が注意しても大して効果はない。選手同士の言葉の方が響くんです」

 初の箱根駅伝出場を決めた記念すべき日の夜も祝杯を挙げることなく、普段通りに午後10時に消灯。毎日、午後10時にマネジャーが全選手のスマホを回収することがチームのルールになっている。苦しい練習、厳格な寮生活についていけず、退部する選手もいる。その時、徳本監督も退部する選手も、お互いに納得した形で別の道に進むという。

 「夜遅くまでオンラインゲームをするより、早く寝て体を休ませたほうが強くなる。それは科学的に証明されているし、うちのチームのルールです。でも、ゲームを長くやりたい、という選手もいる。そういう選手には『君の考えは尊重する。夜遅くまでゲームをしても強くなれるチームがどこかにあるかもしれない。君はそのチームで走った方がいい』と。確かに今のうちのチームは厳しい。『楽しく走りたい』という選手には『それなら退部して、楽しく走れる環境で楽しく走った方がいいよ』と言います」

 徳本監督は自らの考えを選手に押しつけることをしない。あくまで選手の自主性を尊重する。

 「僕から選手に寄っていかない。言いたいことや聞きたいことがあればいつでも来い、と。そうすると、選手は自分で考えを整理した上で質問に来る。こちらから一方的に教えるより身につきます」

 監督室で行った約1時間のインタビュー中にも、何人もの選手がノックして訪れた。そのたび「ちょっと、すみませんね」と徳本監督は丁重にインタビューの中断を申し入れた上で、選手と熱心に意見交換をした。

 「中には全く話を聞きに来ない選手もいます。僕から言いたいことがあるけど、信念を崩すわけにはいかないから、我慢していますよ」

 初めて挑む箱根駅伝。チーム目標は、選手の話し合いによって決まる。

 「目標は選手ミーティングで決めろ、と言っています。それが5位なのか、シード権(10位以内)なのか、あるいは20位なのか、分かりません。僕は、選手が決めた目標を達成できるようにアプローチしていくだけです」

 個性的な指揮官は、現役時代、やはり、個性的な選手だった。法大時代、箱根路で多くの“伝説”を残した。箱根駅伝史上初めて金髪とサングラスで疾走したとされる。1年時に1区で10位でデビューすると、2年時は1区で区間賞を獲得した。区間2位に1分5秒の大差をつけ“爆走王”の異名を取った。その年、2区でも坪田智夫(現法大監督)が区間賞を獲得。「オレンジエクスプレス旋風」を巻き起こした。

 「やはり、2学年上の坪田さんの存在が大きい。練習のやり方は違いました。例えば1000メートルのインターバル練習では、僕はラスト一本を限界までスピードを上げるようにしていましたが、坪田さんはプラスで1本、あるいは2本を加える。強くなるためのアプローチは異なりましたが、お互い競技に貪欲でした」

 坪田先輩は昔も今も特別な存在だ。

 「坪田さんはキャプテンとして一生懸命にチームをまとめようとしていました。自由気ままな僕の扱いには苦労したと思いますよ。実際、衝突もしました。でも、僕は坪田さんの姿勢に影響を受けることは多かった。当時、選手寮と練習グラウンドは4キロくらい離れていて、ほとんどの選手が原チャリ(ミニバイク)かチャリンコ(自転車)で通っていた。僕は原チャリでしたね。でも、坪田さんはいつも走って通っていた。そして、どんどん強くなった。そのうち、走って通う選手が増えていった。僕もそうです。その時、監督の言葉よりも、選手の行動の方がチームに響くと知った。それは、今、指導者としても生きています。予選会のレースが終わった後、会場で坪田さんに会って『おめでとう』と言ってもらった。坪田さんの祝福はうれしかったです。本戦でも法大に挑戦したいですね」

 坪田監督が法大を卒業後、徳本監督がエース区間の2区を担った。3年時、3位でタスキを受けると、日本人トップの区間2位の好走でチームを首位に引き上げた。その直後、生中継されたテレビインタビューでは新春の日本列島のお茶の間に衝撃を与えた。徳本監督はレース中に使用したサングラスとは別のサングラスで登場。それは頭の上から装着するウルトラマンのような奇抜なデザインだった。

 「僕はオークリーのサングラスが好きなんです。戸塚中継所で待っていたオークリーの露木慎吾さんという方に『テレビインタビューでこれをかけてよ』と渡されて『面白いですね』と引き受けました。そのサングラスをかけてインタビューエリアに行くと日本テレビのスタッフに『本当にこの格好でいいんですか?』と聞かれましたけど『むしろ、この格好でなければ出ません』と答えましたよ」

 ある意味、レースより印象深い3年時の“徳本伝説”の裏話を楽しそうに明かす。しかし、4年時は一転、悪夢を見た。2年連続の2区は6位とまずまずの位置で鶴見中継所をスタートしたが、アクシデントが発生した。

 「右ふくらはぎに不安を抱えての出場でした。23キロを走りきれると思ったけど、5キロあたりで右ふくらはぎの筋肉が切れてしまった。『バチッ!』という音が聞こえました。その後、痛いというより、感覚がなくなってしまった」

 必死に腕を振り、足を動かすが、ペースは落ちる一方。レースを止めようとする成田道彦監督を何度も振り切って走り続けたが、結局、7・3キロ地点で成田監督に止められ、途中棄権を強いられた。大手町スタートから28・6キロ地点での途中棄権は箱根駅伝史上最短記録として今も残る。

 「5位集団を走っていましたが、その集団に引き離され、遠ざかっていく選手の背中がスローモーションように見えたことを今でも覚えています。でも、その後のことは覚えていない。後に録画を見て、成田監督を振り切っていたことを知りました」

 選手として最後の箱根駅伝は最悪の結末となった。もちろん、スタート前は想像していなかった。

 「1週間前の調整の5000メートルは予定通りの14分10秒で走れた。その後、右ふくらはぎに違和感が出た。それで、2日前に最終調整の2000メートルを走った。これを走れなければ欠場するつもりでしたが、5分30秒で走れた。少し痛かったけど『この痛みを1時間、我慢すればいいんだ』と思って、最終的に出場を決めました。結果的にチームメート、成田監督に迷惑をかけた。それは、今でも申し訳なく思います」

 悪夢の第78回箱根駅伝から、ちょうど20年。監督として箱根路に戻る。

 徳本監督には墓前に報告したい恩人が2人いる。ひとりは、広島市立沼田高時代の恩師、三浦学さん。広島市立美鈴が丘中3年時に全国大会で1500メートル2位、3000メートル3位となった徳本監督は多くの高校から勧誘された。

 「三浦先生には中学時代から熱心なアドバイスを受けていたので、沼田高進学を決めました。三浦先生のアドバイスは常に的を射てていた。とても、厳しかったけど、とても、優しかった。大きな人でした」

 三浦さんは広島県内で名を知られた選手であり、指導者だった。世羅高3年時には全国高校駅伝で最終7区を走り、区間賞を獲得。チームを3位から2位に引き上げた。世羅高では青学大・原晋監督(54)と同期生だった。日体大では箱根駅伝に3回出場。2年7区4位、3年10区7位、4年3区2位の成績を残した。卒業後、郷里の広島に戻り、教員を務めながら、地元の体育協会チームの選手として広島伝統の中国駅伝などで大活躍した。しかし、徳本監督が高校1年だった1995年の8月、交通事故で亡くなった。まだ、29歳の若さだった。

 「あの夏は泣いた記憶しかありません。高校では5か月だけですけど、三浦先生には、たくさんのことを教わりました。特に印象に残っている言葉があります。『速さだけを求めるなら自転車に乗ればいい、車に乗ればいい。徳本は速いだけではなく、人を引きつける走りをしてほしい』と。三浦先生の言葉は、法大時代も、日清食品時代も、忘れたことはありませんでした」

 徳本監督にとって、三浦さんは「永遠の先生」であり、指導者としての「道しるべ」となっている。

 「亡くなった三浦先生と同じ年になった時『三浦先生に比べると、オレは何て幼稚なんだろうか』と思いました。今、42歳になりましたけど、やっぱり、29歳の三浦先生の方がずっと大人に思える。三浦先生はどう思うだろうか、と、よく考えています。三浦先生に恥じない生き方をしたい、と、いつも思っています。僕の中で大きい人です。広島に帰ったら、お墓参りに行きます。先生が生きていたら、何て言ってくれるかな、と考えますね」

 もう一人の恩人は、駿河台大の山崎善久前理事長。駅伝部を強化し、徳本監督を招へいした。

 「(漫画の)釣りバカ日誌みたいな状況でしたよ。山崎理事長は大学トップで、僕はただの職員なのに、よく2人だけで話をしました。スーさん(社長)がハマちゃん(平社員)に釣りを教えてもらうような感じで、山崎理事長は、よく僕に陸上の話を聞いてきましたね」

 就任から5年目。2016年の箱根駅伝予選会で19位に終わり、本戦出場を逃した後、徳本監督は、ある決意を持って山崎理事長と会った。

 「『いつでもクビにしてください』と申し出たら、山崎理事長は『続けてほしい。大学のバックアップが十分でななく、申し訳ない』と頭を下げられた。この時、絶対に駿河台大を箱根まで連れていきたい、と強く思いました」

 結局、徳本監督は留任。2人の「釣りバカ日誌」のような関係が続くことになったが、2017年になると、山崎理事長は徳本監督の前から姿を消した。肺がんの闘病のためだった。

 「しょっちゅうスマホに励ましのメールがあったので、僕も、いつもチームの様子や結果を返信していました。山崎理事長がガンとは知りませんでした」

 山崎理事長は2017年8月、東京都内の病院で亡くなった。まだ、50歳だった。

 「スマホには山崎理事長とのメールのやりとりが残っています。よく見ていますよ。何か元気が出てきます。山崎理事長が、お元気なうちに箱根駅伝に出場したかったです」

 山あり谷あり。波乱万丈の人生を生き抜いてきた徳本一善、42歳。文字通り、山あり谷ありの箱根路に全力で挑む。

 「法大時代、面白いことをやろうと思っていた。それは、監督になっても変わっていません」

 2022年1月2日、3日。“徳本伝説第2章”が始まる。

  ◆徳本 一善(とくもと・かずよし)

 ▽生年月日 1979年6月22日。42歳

 ▽出身地 広島市

 ▽中学時代 美鈴が丘中1年から陸上を始める。3年時に全国大会で1500メートル2位、3000メートル3位

 ▽高校時代 広島市立沼田高3年時に全国高校総体1500メートル2位。日本選手権1500メートル5位

 ▽大学時代 1998年に法大入学。3年時に日本学生対校1500メートル優勝。4年時に日本学生対校5000メートル優勝、ユニバーシアード1万メートル銅メダル。箱根駅伝は1年1区10位、2年1区1位、3年2区2位、4年2区途中棄権

 ▽社会人 2002年に法大を卒業し、日清食品に入社。03、04年の日本選手権5000メートル連覇

 ▽自己ベスト 1500メートル3分40秒40(日本歴代26位)、5000メートル13分26秒19(日本歴代29位)、1万メートル28分13秒23、マラソン2時間14分48秒

 ▽指導者 11年11月、選手兼任で駿河台大コーチに就任。12年4月、日清食品を退職し、駿河台大駅伝部監督に就任

 ▽家族 妻と1女1男。妻・梨江さんは駅伝部の管理栄養士を務める。長男・陽(ひなた)は昨年、中学生の全国大会3000メートル12位で、現在は群馬の強豪、東農大二高1年

 ◆駿河台大駅伝部 1987年、大学創立と同時に陸上競技部が創部。2005年、箱根駅伝予選会に初出場。2012年、陸上部から駅伝部が分離独立すると同時に徳本一善監督が就任。現スタッフは後藤宣広コーチ、加藤孝太コンディショニングコーチ、小金沢英樹アドバイザリーコーチ。選手61人、学生スタッフ5人。タスキは水色と黒のツートンカラー。練習拠点は埼玉・飯能市。

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