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【駅ペン】悪夢の予選会次点敗退 でも、30年たてば懐かしさもあり この日の拓大ランナーもいつか懐かしく思う時がくることを願う

11位となり選手テントでレースを振り返る拓大チーム (カメラ・堺 恒志)
11位となり選手テントでレースを振り返る拓大チーム (カメラ・堺 恒志)

 箱根駅伝予選会の会場で取材受け付けを済ませると、大会プログラムをもらえる。今大会のメンバー表に加え、過去の記録が記載されている。毎回、私は1991年の第68回大会の記録欄を確認する。

 〈1〉早稲田大学

 〈2〉専修大学

 〈3〉法政大学

 〈4〉神奈川大学

 〈5〉亜細亜大学

 〈6〉国士舘大学

 (以上6校、本大会出場)

 〈7〉東洋大学

 当時、私は低迷期にあった東洋大陸上競技部の4年生だった。その予選会にも出場した。

 「やっぱり、落ちているよな…」。6位の国士舘大と2分22秒差の7位敗退。当然、結果(事実)が変わっているはずがないのに、今年も確認してしまった。

 予選会において1位と2位には大差はない(トップ通過は勢いがつくという利点はあるが)。しかし、ギリギリ通過と次点敗退には天地の差がある。予選会の次点敗退から、ちょうど30年たった今も、あの日の悪夢、いや、最悪の現実をはっきり覚えている。時折、夜中に、あの悪夢で目が覚めることもある。

 1991年10月27日。当時、会場は大井埠頭の周回コースで、距離は20キロ。本戦の出場枠は15校でシード9校。予選会は6つの枠を争った。

 前年の予選会で、私は調子が良く、学内2位で東洋大の4位通過にそれなりに貢献した。しかし、本戦では3区14位でチーム最下位の要因になり、またもや、大井埠頭の戦いを強いられた。前年の成績を考えれば、チームの平均以上のタイムを出さなければいけない立場だったが、その1年は故障が続き、予選会に間に合わせるのが、やっとだった。レース中も思うように体が動かず、予定より悪い位置でレースを進めていた。東洋大のピンチはさらに重なった。我がチームのエース格だった同期の出水田洋が、私のわずか30メートルほど前をヨロヨロと走っていた(ちなみに彼は卒業後、日産自動車で競技を続け、チームメートのトップランナー田村有紀さんと結婚。長女の真紀選手は実業団の第一生命で頑張っています)。

 「お前は、そんな所で走っている場合じゃないだろ!」自分のことを棚に上げて、走りながら、心の中で出水田に文句を言ったことをよく覚えている。

 結局、出水田は学内5位、私は学内6位。4年生がチームの足を引っ張り、東洋大は45年ぶりに本戦出場を逃した。それは当時、連続出場を逃した歴代最長記録だった(その後、中大、順大、日大が東洋大を超える連続出場記録がストップし、現在は歴代4位)。

 お互い、おじさんになって、OB会などで顔を合わせると(最近はコロナ禍でそんな機会がないこと自体がさみしいが)「予選会で落ちたのはオレのせいでもあるけど、お前のせいでもあるからな」とお互いに言い合うことが常となっている。今でも東洋大の歴史に泥を塗った負い目があるし「なぜ、もっと頑張れなかったのか」という後悔もある。それでも、30年たった今でも、遠慮せずに文句を言い合える仲間と同じ目標に向かって走った日々は懐かしく感じる。

 今回、拓大が次点の11位で敗退した。今、拓大の選手、特に4年生は、激しく落ち込んでいるだろう。後悔しているだろう。でも、いつか、おじさんになった時、この日を懐かしく思う日が来ると思う。そう、あってほしい。(箱根駅伝担当・竹内 達朗)

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