【巨人】後楽園時代から場内アナウンス・山中美和子さん、きょうヤクルト戦で3000試合超キャリアに幕

スポーツ報知
放送ブースのマイクを前に、スコアブックを広げ場内アナウンスの美声を響かせる山中美和子さん(カメラ・杉山 彰一)

 巨人軍の主催試合で、選手の名前などをコールする「場内アナウンス」を担当している山中美和子さん(64)が、きょうのヤクルト戦を最後に、その職を離れる。後楽園球場時代の1977年から“ウグイス嬢”を務め、1軍の公式戦からオープン戦、そして、以前は2軍も担当するなど、ここまで3000試合以上もマイクの前に座ってきた。多くの巨人ファンが聞き慣れてきた山中さんのコールが“試合終了”を迎えることを受け、14年に連載した「巨人軍 あの時」で掲載した山中さんの逸話を、加筆・修正して再掲載する。

 山中さんが巨人軍の球団職員になったのは、1977年のこと。長嶋監督の第1期政権時代で、前年の初優勝に続き、V2を狙う―という年だった。それまで山中さんは神奈川県高等学校野球連盟(高野連)の職員として、春、秋の県大会、夏の神奈川大会でアナウンス係を務めていた。

 「子供の頃から野球が大好きで、高校時代は野球部のマネジャーをしていたんです。それで、卒業後も何か野球に携われる仕事がしたい、と思っていたところ、『県の高野連の職員にならないか』という話を頂いたんです」

 当時、神奈川県は東海大相模の全盛期。2歳年下のスター・原辰徳内野手の名前も当然、コールしていた。

 「『5番、サード・原辰徳君』って、フルネームで。チームに辰徳選手のいとこで『原雅己』選手がいたので、区別するためにフルネームだったんです。私が高校3年の時、辰徳選手はまだ1年生。体が細かったけど、私が場内アナウンスを担当する頃には、すごく大きくなり、大変なオーラがありました」

 そんな山中に、巨人軍への転職を勧めたのが、当時の神奈川県高野連・清水仲治理事長だった。

 「球場からの帰り道だったでしょうか、理事長から『巨人軍が場内放送係を募集しているから、応募してみたらどうだい』って言われたんです。清水さんは『ダメだったら高野連の仕事を続ければいいんだから』と言ってくださいました」

 一念発起。77年の夏、巨人軍球団職員募集の試験にチャレンジした。ところが、書類選考の段階で落ちてしまう。山中の自宅は後楽園球場の最寄り駅からは遠方にあった。現在のようにJR(当時は国鉄)の電車本数が多くはない。「ナイターが終わってから帰宅できない」というのが理由だった。

 「『ああ、ダメだったのか』と思っていたら、球団から連絡があったんです。『入社試験を続けませんか』と。それで、試験を続けると、ある日、原稿を読まされましてね。『5番、レフト・末次、背番号〇〇』というように『〇〇』という穴を埋めるような原稿でした。アナウンスの力と知識をいっぺんに試しているようなものでした」

 実はこの時、巨人は“即戦力”のアナウンス係を探さねばならない事態に見舞われていた。

 1953年からアナウンスを務めていた務台鶴さんが病気療養に入っていたのだ。古い巨人戦の映像でおなじみの「4番、ファースト、王」の声の主。王の調子の良し悪しが、打席の構えで分かる―というほどの大ベテランだ。もう1人、アナウンス係がいたが、こちらも結婚退職が決まっていた。高校野球の場内アナウンス経験がある山中は、チームにとっての救世主だったのだ。

 こうして、山中さんは試用ながら球団職員となった。8月末には、さっそく多摩川で2軍戦の放送を担当。秋を迎えた頃、体調を崩した務台が多摩川にひょっこり姿を見せた。

 「ちょうど雨の日でした。務台さんは傘も差さずに、2軍戦を土手の上から見ていてくださったんです。試合後、お話しする機会があり、私は『次打者の名前をコールするタイミングはどの辺りが良いのでしょうか?』と聞いたんです。先頭打者なら、投球練習の球が捕手から内野回しのために返球された時なんですが、先頭以外は、どうしてもタイミングがつかめなかったんです」

 すると、務台はこう答えた。

 「あなたがお客さんだったら、ジャイアンツファンだとしたら、どのタイミングで聞きたいの? それを考えなさい」

 選手の名前のコールを聞いて、ワーッと盛り上がりたいのがファンだ。「ジャイアンツファンだったとしたら、それが分かるはず」と務台は言った。

 「それを聞いて『ハッ』としました。私がアマチュア時代、務台さんのアナウンスで『すてきだな』と思ったのは、倉田(誠)投手を呼ぶ時だったんです。倉田さんがリリーフで活躍している時期があり、務台さんが『ピッチャー、堀内に代わりまして…』と、ここでひと呼吸おいて、『倉田』とアナウンスすると、後楽園全体が沸いたんです。それが『いいな、すてきだな』って。だから、務台さんのアドバイスは効きました。それからは、ファンの気持ちを一番に考えて、コールするようになりましたね」

 務台さんは翌78年5月にこの世を去る。山中さんは今も命日には都内にある恩人の墓参を欠かさない。

 1軍戦のデビューは翌春のオープン戦だった。試合数をこなすようになると、とんでもない失敗もしでかした。新浦寿夫が投げている試合だった。常にスコアブックを付けながら放送をしているが、カウントを間違えて、勝手に四球と思い込み、次打者をコールしてしまった。

 「どうしていいのか分からずに、マイクのスイッチを切って、じっと下を向いていました。後で新浦さんが来て、『俺の球が良すぎて、三振だ、って思っちゃったんだろ』と言われたんです。『フォアボールだと思って』とは言えず、『はい…』とうなづいてしまいました」

 札幌円山球場でのこと。マイクのスイッチが入ったままなのに、吉田孝司捕手のプレーに思わず、「あーっ、残念!」と声を出してしまった。

 「確か吉田さんは故障明けでの出場だったんです。キャッチャーフライに飛びついて捕ろうとしたのに、届かなかったんですね。せっかくけがが治って復帰したのに、『残念!』と思って声に出してしまったんです。まさかマイクのスイッチが入ったままなんて…球場中に私の声が響いてしまって、長嶋監督をはじめ、選手全員が一塁ベンチから身を乗り出して、私の方を見ていました」

 選手の優しさにも触れた。ある日の後楽園球場。巨人の練習中にスコールのような大雨が降ってきた。放送室はグラウンドレベルにあったが、出入り口の前に大きな水溜まりが出来てしまった。部屋から出られずに難渋していると、中畑清選手が通りかかった。

 「中畑さんが『おっ、どうした? 出られなくなっちゃったのか? いいよ、俺がおぶってやるから待ってろ』と言って、ユニホームのズボンの裾をたくしあげて、水溜まりの中を助けに来てくれたんです。私はおぶられるのが恥ずかしかったんですけど…本当に優しいんですよ。中畑さんは」

 1、2軍の公式戦にオープン戦、クライマックスシリーズなどを含めると、77年からきょうまで、ゆうに3000試合を越える試合を担当してきた。その中で忘れられない試合が、1981年の日本シリーズ第6戦だ。巨人は日本ハムと対戦。ともに後楽園球場を本拠地にしていたことから“後楽園シリーズ”と呼ばれた。一つの球場だけで日本シリーズを戦ったのは、プロ野球の長い歴史の中でも、この一度きりだ。

 巨人3勝2敗で迎えた第6戦。勝てばV9最後の年(73年)以来、実に8年ぶりの日本一が決まる。第1、2、6、7戦と日本ハムがホームだったため、山中さんは場内放送担当ではなかった。しかし、この試合は後楽園まで足を運び、巨人に声援を送っていた。

 巨人は勝ち、日本一になった。就任1年目の藤田元司監督が胴上げされ、さあ、日本一のペナントを掲げて、場内一周が始まる―という時だった。試合の場内放送を担当してた日本ハムの職員・川部栄子さんから「代わっていいですよ」と連絡があり、マイクの前に座った。

 「驚きましたが、うれしかったですね。本当に川部さんに感謝しました」

 あの時の優勝セレモニーは、巨人がビジター扱いでありながら、巨人の放送担当である山中さんの「巨人軍。日本シリーズ優勝です。ご声援ありがとうございました」との声が彩っていたのだ。

 場内アナウンス係として、尊敬する務台さんの年齢を越え、高校時代から何度も名前をコールしていた原監督から、ねぎらいの言葉を掛けられつつ、山中さんはきょう、放送席を離れる。

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