「一手の記憶」ー室谷由紀女流三段インタビュー(上)

スポーツ報知

 将棋の第48期岡田美術館杯女流名人戦(主催・報知新聞社)で進行中の女流名人リーグは史上空前の激闘が展開され、クライマックスの8回戦を迎えている。女流棋界最難関リーグで戦う10人は挑戦権を、そして残留を目指した決戦に臨んでいるが、舞台上に前々期挑戦者の姿はない。過去5度のタイトル挑戦経験を持つ実力者の室谷由紀女流三段(28)は、昨期の女流王将戦での敗退後の低迷から抜け出せていない。苦しみの日々は、あの一手から始まっていた。(文・北野 新太、カメラ・矢口 亨)

 あの瞬間、棋士人生に何度とない極限の時を室谷は生きていた。相一分将棋。秒針が一周する前の決断が求められていた。

 2020年10月30日、東京・将棋会館「特別対局室」。女流王将戦三番勝負第3局。第一人者の西山朋佳女流王将(26)=女王、女流王座=に挑戦し、1勝1敗で迎えた最終局は5度目のタイトル挑戦での初戴冠を懸けた大勝負だった。

 終盤、室谷の後手玉はスルスルと9筋の上部へと逃走を図る。西山が捕まえるには駒台に戦力が乏しく、室谷の勝勢になっていた。栄光の時は近づいていた。

 急転直下の事件が起きたのは、階下の記者室で記者たちが予定稿を書き終えた頃だった。

 香車だけは絶対に渡してはならない局面で、室谷は攻め合いに出る失着を指す。詰めろ飛車取りの順に入り、信じられないような大逆転劇が演じられ、勝負は西山の勝利で終わった。

 勝負に、そして将棋に「たられば」など許されないが、里見香奈女流名人(29)=清麗、女流王位、倉敷藤花=と並ぶ最強者である西山からの奪取は革命的な意味を持ち得た。室谷個人の悲願成就という観点のみならず、女流棋界全体にとっての希望になり得る快挙となるはずだった。

 あの日、手のひらの上に冠を載せていた室谷は、自らの失着によって頂点をつかむことができなかった。

 あれから1年。あの一手を、今を、未来をどう見ているのかを聞いた。

 ―あの一手のことを今、どのように思っているのでしょうか。

 「やっぱり…今も忘れられません。まだ夢に出てきたりします」

 ―あの局面、一分将棋の中でどんな思考に、どんな精神状態に陥っていたのでしょうか。

「分からないです。普通に指していれば、香車を取られて詰めろ飛車取りになる変化なんて一目のはずなんですけど、見えなくなっていたということは、極限状態にいたんだな、とは思います。あの直前の時間帯、少しだけ頭をよぎってしまったんです。自分もようやくタイトルが獲れるのかもしれない、長かったけどようやく獲れるのかもしれない、という気持ちが。もしかしたらもう投げてくれる(相手が投了する)かもしれない、というようなことも一瞬だけ。でも、西山さんは全く諦めてなんていなかった。香車を取られて初めて、あっ、て気が付いて。私は甘かったんです」

 ―あれから、どこか歯車が合わなくなっているように感じていました。らしくない将棋もあったし、らしくない敗北もあった。結局、20年度はデビュー12年目で初めて年度負け越し(15勝17敗)に終わった。

「タイトル戦は5回目で、今までも届かなかった後は落ち込ましたけど、2、3か月くらいすれば気持ちも戻って来ていたんです。今回は今までに感じたことのないような何かがあって、完全に何かが切れてしまったような気がして立ち直れなかったんです」

 ―頂点をもう一度目指そう、というモチベーションが生まれなかったのでしょうか。

 「正直、自分に将棋は向いていないんじゃないか、ということまで考えました。向いていないなら、自分が将棋界にいる意味って何なのだろうって。30歳も近くなりましたし、今後の自分の生き方を考えた時、今までとは違う自分の在り方もあるんじゃないか、とかも思うようになって。今までになかった普及のことを考えることも大切なことだと思いましたし。ちゃんと自分のことを考えるためには一定期間の休場をして、違う世界、広い世界を見たいな、とも考えました。コロナ禍ですから選択肢にはなりませんでしたけど、少しの間、誰も知り合いのいない海外に行って過ごしてみたいな、なんていうことも考えました。そんな中で女流名人リーグも復帰できなくて。年度を通して指せるリーグなので、過去7年間、どこか自分の存在意義を感じられる場所だったんですけど…。だから、もう自分の居場所はないのかもしれないと考えていました」

 ◆室谷 由紀(むろや・ゆき)1993年3月6日、大阪府大阪狭山市生まれ。28歳。森信雄七段門下。6歳で姉とともに将棋を始める。同じ教室で一緒に腕を磨いたのが西山朋佳女流三冠だった。現在、2人はともに大阪狭山市観光大使を務める。中学時代、女流アマ棋界で活躍した後、2008年に女流育成会入会。10年、女流棋士に。14年に日本将棋連盟関西本部から東京本部に移籍。15年度の将棋大賞で女流棋士賞・女流最多対局賞受賞。16年度は女流最多対局賞受賞。タイトル戦は16年のマイナビ女子オープンで加藤桃子、16年と18年の倉敷藤花戦で里見香奈、20年の女流名人戦で里見、20年の女流王将戦で西山に挑戦したが、獲得ならず。鋭い攻めと的確な受けを武器とする振り飛車党。今期は8勝7敗。趣味はチワワの空(3歳)と陸(2歳)の世話。阪神タイガースの大ファン。

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