「江川事件」で巨人から来た小林繁の美学…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<19>

スポーツ報知
江川卓との交換トレードで阪神に入団した小林繁が古巣・巨人の打者たちを相手に熱投して勝利投手に。しなやかな体をおどらせ、帽子を飛ばしての力投に意地があふれる(1979年4月10日、甲子園球場で撮影)

 プロ野球界では「コーチより選手の方が年上」というケースがよくあります。現役を12年間で終えて、35歳でコーチになった私にもそんな事がありました。コーチ2年目に、2歳年上の選手が入ってきたのです。

 阪急で338勝もしていた米田哲也さんが移籍してきたのは1975年のシーズン途中でした。米田さんのイメージを思い浮かべると、いつも「走っている姿」が出て来ます。通算350勝の原動力は「走ること」だったのです。先輩の小山正明さんも言っていました。「ランニング・イズ・マネー」。昔の投手は本当によく走っていました。

 75年の移籍組がもう1人。広島から来た安仁屋宗八です。私が内野ノックをしていると「一緒に受けていいですか」と毎日ノックを受けに来て、一塁へ送球する。それが彼の調整法でした。私の周りにいる沖縄出身の人は、口数が少ないシャイな人間が多いのですが、安仁屋君は別。とにかく明るい。今でもマツダスタジアムの記者席に座っていると「安藤さん、ご無沙汰」と声を掛けてくれます。

 翌年の76年、南海から江本孟紀投手が来ました。野村克也、ブレイザー監督の下でやっていましたから、彼らの野球をよく知っています。選手のクセを見るとか、ビデオの効用とか、それまで阪神がやらなかったことをやるきっかけを作ってくれました。彼は81年に「ベンチがアホやから」発言で退団。私はその年の秋、監督就任が決まりました。82年に江本君がいたら、先発陣の軸として使っていたでしょう。大誤算でした。

 81年のシーズン途中にロッテから来た福間納も思い出に残る選手です。中継ぎが彼と池内豊しかいなかった事情もあり、監督時代はよく投げてもらいました。84年、福間の登板が70試合を越えた頃の話です。一通の手紙が届きました。野球界に関係する某氏からでした。内容を簡単に言うと「シーズン最多登板の日本記録(78試合=当時)は稲尾和久さんが持っている。先発もリリーフもやって42勝した大投手に、リリーフ専門の福間投手が並ぶのは納得できない」というものでした。記録を作らせるために起用していたわけではありませんが、私は福間の登板をタイ記録直前(77試合)で止めました。右打者にも相性がよく、バント処理もうまい。監督として重宝な投手だったのですが…。(現在のシーズン最多登板の日本記録は07年の阪神・久保田智之の90試合)

 最後は小林繁投手。例の「江川事件」で巨人から“トレード”の形で来た79年、まさに鬼神のように投げまくって22勝を挙げました。ところが83年、13勝を挙げたのにユニホームを脱ぎました。夏場過ぎに「自分の思うような投球が出来なくなりました。今年で辞めたい」と監督の私に言ってきました。「まだやれるじゃないか」と説得しましたが、決意は固かった。彼なりの美学があったのでしょう。57歳の若さでこの世を去ったことといい、彼はいつも私のそばから突然いなくなりました。

 さて、今回はトレードで来た選手のことを書いたのですが、投手ばかりになってしまいました。次回は野手にも触れないといけません。トレードでやってきて、監督にまで上り詰めた“あの男”のことを書かないと虎党に怒られます。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は11月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

野球

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請