【ドラフトの記憶】大阪桐蔭のホワイトボード 日程表に2つの「M」の謎…中田翔を本気で狙ったあの球団

スポーツ報知
日本ハムから1巡目指名された大阪桐蔭・中田翔。仮契約を終え、会見で梨田監督の写真を手にガッツポーズ

 忘れ去られた記憶がある。むしろ、話題が最大瞬間風速で駆け抜けてしまったので、ほとんど気に留められなかったという方が正確かもしれない。

 2007年の高校生ドラフト。最も競合したのは仙台育英・佐藤由規だったが、世代の中心は間違いなく大阪桐蔭・中田翔だった。

 あれはプロ野球志望届を届け出て間もない9月のこと。野球部グラウンドのホワイトボードをふと見ると、日程表の2か所に「M」と記されていた。調査書提出の時期とはいえ、ロッテが2日も来るだろうか。近い関係者に取材を重ねると、そうではなかった。「M」のひとつはマリナーズだったのだ。

 マリナーズは本気だった。その動向はスポーツ報知でも報じた。実現の可能性はゼロに等しかったが、ドラフト直前には3億円の資金を用意してエンゲル国際部長自ら学校を訪れ、本人と対面。「日本でプレーする。それしか考えていないです」。翻意は叶わなかったが、通算87本塁打、投げても最速151キロの金の卵だ。高卒即アメリカというロマンを抱かせるのにふさわしい選手だった。

 さらには「(プロで投打)両方でやってみたい」と宣言したほど本人は投手へのこだわりも強く、担当としては「投手・中田」に強く惹かれていた。右肘を故障することなく、時代が時代なら二刀流の先駆者になっていてもおかしくなかったと今も考えることがある。

 その年は何もかもが特別だった。1年夏から目覚ましい活躍を見せていたドラフトの目玉を巡る狂騒曲は、年始からピークに達していた。始動した1月4日。早朝から野球部の初詣に同行すると、境内で待ち受けていたのは阪神のスカウト4人。白い息を吐きながら、おみくじを引いて盛り上がる中年男性たちの熱意にいきなり仰天させられた。ある程度想定はしていたが、この先どこまで密着するつもりなのか…。平成生まれの怪物が厳かに手を合わせる姿にまで熱視線を送る光景は異様だった。

 午後からの練習始めには日米10球団が集結。後にも先にも年始の練習でこれだけの数はほとんど例がない。当時ありがたかったのは、各球団のスカウトがこちらの記事の提案に協力的で、プロレス的な丁丁発止を繰り広げてくれたことだ。

 注目を分散&一極集中させるため、あえて翌日に6人態勢で現れたのはオリックス。「初詣まで行くのは迷惑だろう」「2日目でもう阪神さんは来ていないのか。向こうが7人で来たらうちは8人で行くよ」と関西のライバル球団を挑発してくれた。

 ソフトバンクもユニークだった。同校の野球部グラウンドは当時、携帯電話の電波が極めて入りにくい環境。取材に行くと会社と連絡がとれなくなることが常だった。ところが、初めて同地に足を踏み入れたスカウト部長(当時)の自社製携帯は感度良好。「おお、(中田争奪戦の)圏内だ。うんうん、いい話じゃないか」とリップサービスをしてくれたのも懐かしい。野球部関係者も無理な取材をいつも受け入れてくれた。規格外の取材は楽しかった。

 毎日のようにプロ関係者や報道陣、ファンが大挙。中田の行くところに人があふれた。普通の高校生なら浮き足立ち、人によっては負担を感じそうなものだが、中田が立派だったのは惑うことなく自分の言葉で語り続けたことだ。

 「プレッシャーはないです。注目してもらっている分、頑張らないと。中途半端なことはできないです」

 結局、ソフトバンク、阪神、オリックスを含めた4球団の抽選で日本ハムが交渉権を獲得。ちなみに、その年の巨人は佐藤由規と中田の2択に絞り込んでいたが、「中田は高校生離れしていたけど、投手が最優先だったからね」(当時の球団幹部)と由規の指名を決めた。

 あの頃、中田がよく口にしていたプロ野球の話題は阪神やRソックス・松坂、オリックス・清原、先輩の中日・平田らについてで、巨人のことを語ったのはスイープした2002年の西武との日本シリーズに魅せられたという話しか記憶がない。

 「持ち味であるフルスイングを今以上の気持ちで続けていきたいです。一生懸命やるだけです」と決意表明したドラフトが今も原点。あれから激動の14年が過ぎた。愛した古巣を離れ、今季途中にジャイアンツ入り。本来の力を出せずもがき苦しんでいるが、批判も誤解も恐れずに言うなら、中田翔はまだまだ花を咲かせる人間だと信じている。(2004、05、07年アマ野球担当・田島 正登)

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