北澤豪と100万人の仲間たち<20>オフト辞任、ファルカン解任、加茂周更迭…。誰もいないロッカー室で北澤が見た意外なものとは

スポーツ報知
「ドーハの悲劇」から2年後、加茂周監督のもとゾーンプレスの一翼を担い、ダイナスティカップ連覇に貢献した北澤豪(1995年2月26日、ダイナスティカップ決勝・韓国代表戦。香港スタジアムにて)

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(52)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

 過ぎてしまえば瞬(またた)く間でも、「ドーハの悲劇」からの4年という歳月は、北澤豪にとって途方もなく長く感じられるものだった。

 アジア地区最終予選、最終戦のロスタイム(アディショナルタイム)に、夢をつかみ損ねた。

ただ、ワールドカップは4年に一度ある。アメリカ大会出場は逃したものの、1998年にはフランス大会があり、むろん、その前年にはアジア地区最終予選が待ち受けている。

 「もちろん、そこへ向けていくわけですけど、ただこのまま4年間を待つのではなく、自分自身、もっと成長しなければならないなと。台頭してきた若手と競うというより、どうしても予選突破の力になりたかったですから」

 1年目、1994年。再始動する日本代表はハンス・オフト監督が辞任し、前ブラジル代表監督を招請することになった。新監督の名を聞いて北澤は驚いた。

 「ロベルト・ファルカンって、マジかよって。僕の憧れだった『黄金のカルテット』の一人ですから。だけど、僕は当初ファルカンから呼ばれてはいないんです、代表に。それまで選出経験のない中堅や若手など、独自の視点や情報で過去にとらわれない登用をしていました」

 ファルカン監督に初招集された選手は14名いたが、そのうち12名は2年以内に代表を外れている。そんな人材発掘を盛んに行うブラジル人だったが、初陣となるホーム国立競技場でのキリンカップ、5月29日の第2戦フランス代表戦で1対4と惨敗してしまう。続く7月8日、瑞穂陸上競技場(現パロマ瑞穂スタジアム)でのアシックスカップのガーナ代表戦で、北澤は招集されて監督の初白星に貢献する(3対2)。

 「呼ばれていなかったときも焦りはなく、ただ僕のことを理解できていなかっただけだろうと。そして初めて合宿に参加してみると、イメージとはまるで違ってびっくりしました。現役時代の華麗なパス捌(さば)きを知っていただけに、そんなことを求められるのかと思いきや、走れ走れのフィジカル重視のサッカーだったんです」

 トレーニングは1日4部制で、内容は1キロ走のあとに10分間走を数本、さらにその後にフルタイムの試合形式のゲームなど過酷なものだった。「ダイナモ」と称された北澤をもってしても息絶え絶えになる練習メニューに、多くの選手が音を上げた。

 「トレーニングがめちゃくちゃ厳しくて、だから初めて選ばれた選手たちは、代表ってこんなにキツかったんだと思ったでしょうね。ファルカンが要求するレベルに達せずに練習に耐えられなかった選手は、次々と篩(ふるい)にかけられるように呼ばれなくなりました」

 元世界的スター選手で、前ブラジル代表監督。その経歴だけでも選手は近寄りがたさを感じていたが、監督も自ら選手との距離を縮めるタイプではなかった。

 「掴みにくかったですね、監督が何を求めているのかを。フィジカル重視というのは分かるんですけど、実際に僕らと話すのはフィジカルコーチだけで、監督は遠い存在でした。たまに話しかけてくれるんですけど、それがチーム全体の戦術ではなく、驚くほど細かい個人の技術理論なんです。インフロントでカーブをかけるときには足の指を広げろとか、インステップでシュートを打つときにはスパイクが曲がるくらい足の指を下へ折り曲げろとか」

 さらに足の指の話のみならず、トレードマークといえる長髪についても言及された。

 「髪を切れと。ヘディングシュートのときに頭を振ったら、髪で視野が遮られるだろうと。あの試合の何分のシーンはそうだっただろうと。結んでいるから大丈夫と説明しても、途中で解けてくるだろうと、とにかく細かいんです」

 しかし結果的にファルカン体制は約半年と短命だった。最初の試金石となった広島ビッグアーチ(現エディオンスタジアム広島)でのアジア競技大会では、ドーハでの最終予選以来約1年ぶりとなった日韓戦で、2対3と惜敗して準々決勝敗退となった。新顔の入れ替えが激しく、コミュニケーションも不足して指針が示されることはなく、組織的な戦術が最後まで浸透しなかった。任期満了のまま契約は更新されず、事実上の解任となった。

 「フリーキック練習でもシュート練習でも、監督自身が蹴るととても上手いんです。たとえ肉体は衰えても、技術は錆びないんだなと。ただ、そんな監督が求めるような個の能力の高い人材がいなかったことと、協会が求める結果にはギャップがありましたよね。新しい選手が増えたことがプラスに働いてはいませんでした。重要な場面でありえないミスを連発する選手もいて、修羅場での経験値が不足しているとしか思えませんでしたから」

 2年目、1995年。前ブラジル代表監督から一転、新監督には国内クラブで実績を積んできた加茂周が就任した。新監督が標榜した「ゾーンプレス」もまた、選手にとっては過酷なものだった。それだけに運動量豊富な彼は、初陣のインターコンチネンタル選手権以降、数々の試合で先発として重用された。

 「ホンダ技研にいた頃から、強豪・日産自動車の監督として尊敬していた人物でしたから、その下でやれることが喜びでした。コミュニケーションも取れるし、積極的にボールを奪いにいってショートカウンターで攻める戦術も明確でやりやすかったです」

 アジア相手の最初の難関、香港でのダイナスティカップ。無敗のまま2月26日の決勝で韓国代表と激突。2対2のPK戦までもつれながらも、オフト監督時代の前回大会から連覇を果たした。

3年目、1996年。ワールドカップの2年後、狭間の年にはオリンピックが行われる。1968年のメキシコシティーオリンピック以降、日本はアジア予選で敗退していた。それが西野朗(あきら)監督のもと、23歳以下のチームで28年ぶりにアトランタオリンピック出場を果たした。そればかりか本大会ではブラジル代表に1対0で勝利し、その大番狂わせは「ドーハの悲劇」にならってやはり試合開催地から「マイアミの奇跡」と呼ばれた。

 「アトランタ世代はアジア予選から大一番をものできる勝負強さを身に着けていて、しかも技術力が高い。日本代表と融合できれば確実にレベルアップできるなと」

 言葉通り、前園真聖(まさきよ)、川口能活(よしかつ)、そして中田英寿らの合流により選手層は厚みを増していた。そんな加茂体制下で、いよいよワールドカップアジア予選を迎えることになる。

 4年目、1997年。「ドーハの悲劇」以降、この4年目のために鍛錬してきたといっていい北澤だったが、皮肉なことが起きた。アジア地区一次予選を5勝1分と無事に1位通過し、迎える最終予選直前の壮行試合を兼ねた8月28日のJOMOカップ。Jリーグ外国籍選抜チームが相手の試合で控え組だった彼は、浦和市駒場スタジアム(現浦和駒場スタジアム)の誰もいないロッカー室へ、ふと入ったときに信じられないものを目にしてしまう。

 「この試合後に発表されるはずだった最終予選に臨む日本代表メンバーが、ホワイトボードに列挙されていました。ぱっと目を通すと、そこに僕の名前がなかったんです。たしかにその頃は、オフがないくらい大会ばかりでコンディションを保ててはいませんでした。ゾーンプレスでボールを奪うまでで体力を消耗して、攻撃でスピードアップするときにミスしてしまうこともあって、試合に起用されることが減ってはいました。だけど、まさかと思いました。代表に入れるのか、それとも外されるのか、心配するようになったのはこのときからでした」

 北澤を外した加茂ジャパンは、悲願のワールドカップ初出場を目指して4年ぶりとなるアジア最終予選へと船出する。けれども、その序盤で、加茂監督更迭という前代未聞の事態が発生して暗礁に乗りあげてしまう。そして、オフト以降3人目となる意外な新監督に、北澤は電話で急遽呼ばれることになる。(敬称略)=続く=

 ◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

 〇…神奈川県サッカー協会と日本障がい者サッカー連盟は9日、「JFAフットボールデー・インクルーシブフットボールフェスタ神奈川2021」をオンラインにて初開催。神奈川県内の全Jクラブと障がい者サッカーチームが集結し、初のコラボイベントを実施した。同フェスタはサッカーを通じ障がい児者と健常児者の相互理解の機会をつくるもので、東京、広島、茨城でも開催されている。日本障がい者サッカー連盟の会長を務める北澤氏も出演し、「みんなでダンス」など参加者と一緒に体を動かした。

 〇…カタールW杯アジア最終予選で日本はサウジアラビアに敗れ、早くも2敗目となった。スポーツ報知評論家の北澤氏は9日付の紙面で、正念場となる次戦のオーストラリア戦(12日・埼玉スタジアム)に向け「もう一度、森保ジャパンの良さに立ち戻り、いい守備からのいい攻撃を見せてほしい」と期待。同時に「勝ちたいがゆえに攻撃的に傾き過ぎると、リスクが大きい。急激に何かを変えられるわけではない。ベースに立ち戻って戦うべきだ」と提言した。

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