【ドラフトの記憶】“運命の日”直前、大野雄大が泣いた「僕がスカウトなら沢村拓一を獲ります」

スポーツ報知
佛教大時代の大野雄大

 昨季の沢村賞投手、中日・大野雄大投手が人前で泣くのを2度目撃している。

 最近では2017年6月7日のZOZOマリンスタジアム。同年の開幕投手ながらヨーイドンから全く勝てず、2軍降格も経て8度目の先発でようやく1勝を挙げた。ヒーローインタビューの途中、気がつけば頬を熱いものが伝っていた。

 そして最初は佛教大4年だった10年10月20日、滋賀・草津市の草津グリーンスタジアム。同年ドラフト会議の8日前のことだった。

 「ドラフト直前の涙」の前に、同年の大野雄について振り返りたい。1988年度生まれ、いわゆる“ハンカチ世代”で、斎藤佑樹(早大→日本ハム)、大石達也(早大→西武)、沢村拓一(中大→巨人)に並ぶ「大学生ビッグ4」の評価を受けていた。京滋春季リーグ戦では完全試合(コールド参考)を記録するなど無双状態。ハイライトの全日本大学野球選手権(6月)では、東北福祉大を12奪三振で完封。詰めかけた日米110人のスカウトに「1位重複指名は確実」と言わしめたのだ。

 大野雄の同学年投手たちへのライバル心、中でも沢村へのそれは相当なものだった。当時の取材ノートを引っ張り出すと「沢村は(筋トレの)スクワットで180キロをヒョイヒョイ挙げてるらしい。僕も(当時の沢村の最速だった)156キロ投げたいんで挑戦したんですけど、ビクともしませんでした」とのコメントを残している。

 紙面用にサインを求めると色紙に「ドラフト1位重複指名」と目標をしたためていた(ちなみに斎藤については「顔では勝たれへんけどボウリングなら絶対勝てる」と話していた…)。

 しかし、そんな大野雄に試練が訪れる。8月中旬。京都府内の大学対抗戦に登板後、左肩後ろの違和感を訴えた。検査の結果は左肩棘下(きょくか)筋の炎症。その影響が長期にわたったことで、ネット裏の評価も露骨に変化していた。

 迎えた京滋秋季リーグ戦。結局、大野雄は1試合も登板することができなかった。エースが登板を回避し続けた結果、佛教大のV逸が決まったのが10月20日だったのだ。

 試合後の青空ミーティングで人目をはばからずに大粒の涙を流した左腕は、アンダーシャツで目をぬぐいながら「チームに迷惑をかけました」と途切れ途切れ声を絞り出した。さらに「(指名順位に)こだわりはありません。投げられなかったことが(自分の気持ちを)そうさせます」と“値崩れ”を覚悟していた。

 当時、あるスカウトに評価を聞くと「ブルペンでも投げないのだから、回復具合を見極めようがない。1位指名はリスクが高い」と耳元で声を潜めた。これが各球団の総意だったのではないか。大野雄本人ですら「僕がスカウトなら沢村を獲ります」と泣き言をつぶやくほどだった。

 ただし中日は別だった。ドラフト前日のスカウト会議。中田宗男スカウト部長(当時)が断言した。「大野雄は大学生の中でも絶対的な評価。競合が5、6球団なら考えるけど、少ないなら絶対降りない」と1位指名を宣言したのだ。

 果たして中日は大野雄を一本釣り。大石は6球団、斎藤は4球団が重複指名。沢村は巨人が単独指名した。

 中日に入団した大野雄はルーキーイヤーの2011年前半を左肩のリハビリ、後半をファームでの調整に費やした。プロ初登板は優勝マジック2で迎えた10月14日の巨人戦(東京D)。勝てば優勝が決まる大一番で、しかも相手先発は沢村だった。ライバルとの投げ合いは4回7失点KOの完敗。プロ初黒星を喫した。

 翌12年にはプロ初勝利を含む4勝を挙げ、13年は初の2ケタとなる10勝をマーク。以降の活躍はご存じの通りだ。大野雄にとって11年前の涙、そしてドラゴンズへの恩義が、プロで長く活躍する原動力となっている。(2010年アマ野球担当、14~18年中日担当・田中昌宏)

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