1918年ベーブ・ルースの「2ケタ勝利&2ケタ本塁打」を再検証 野手として600イニングを守っていた

スポーツ報知
10勝&22本塁打を記録した、2016年の日本ハム・大谷翔平

 エンゼルスの大谷翔平投手が挑んだ、1918年のレッドソックス、ベーブ・ルース以来の「2ケタ勝利&2ケタ本塁打」は来年以降に持ち越しとなった。ここで改めて、ルースの同年の戦いぶりを振り返ってみたい。

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 1918年は第1次世界大戦の激化とスペイン風邪の蔓延の年として知られる。ベーブ・ルースはこの年、メジャー昇格5年目。17年までの4年間は主に投手として67勝をマークしていたエース左腕。その一方で通算打率2割9分9厘、9本塁打も、代打出場はあっても野手として守備についた事は一度もなかった。

 米国も欧州戦線に参戦し、メジャーからも独身選手が徴兵されていった(既婚者は兵役免除=ルースも既婚)。チームはルースの野手出場を考慮し始め、オープン戦初戦は一塁手として出場すると、いきなり2本塁打を放っていた。シーズン5試合目の登板となった5月4日のヤンキース戦では5失点で完投負けも、打席では右翼にどでかい1号アーチを放った。

 迎えた6日にバロー監督はルースの野手兼任を決断。本人に「君は頑健で打撃のパワーもある。先発しない時に、守備につく気はないか」と尋ねると、日頃からバッティングに自信を持っていただけに二つ返事だった。

 当時はボールも粗悪でこの年、8球団のア・リーグ全体で95本塁打しか出なかった。しかし、ルースだけは違った。6日のヤンキース戦に「6番・一塁」で野手として初先発すると2号。翌日は初めて「4番・一塁」に入り、3試合連続アーチを放った。

 5月20日からスペイン風邪で喉を痛め10試合欠場。一時は重体のニュースも流れたが、頑健なルースは復帰すると、6月に入って再びスパーク。2日、再び「9番・投手」で4号アーチ。3日から3試合続けて「3番・中堅」で出場するとアーチをかけ続け、メジャー史上初の4試合連続本塁打をマークした。

 大戦で通常より28試合少ない126試合で、規定打席不足ながら95安打で打率3割、大谷同様に長打が安打の半分以上の48本(二塁打26、三塁打11)。結局、本塁打は6月30日の11号で終わったが、リーグトップタイ。7月4日の第2試合からは最終戦まで何と37試合連続出場。この間、11試合に先発し9勝2敗でチームのア・リーグ優勝に貢献。9月5日からワールドシリーズが史上最速で行われ、第1戦では1―0完封。第4戦も8回2失点、自ら2点三塁打を放って2勝を挙げ、2年ぶりの世界一の立役者となった。

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 ルースは翌年から野手出場が多くなり、二度とこの記録は作れなかったが、引退後自伝で「今だったら大変な酷使で選手会も放っておかないと思うが、当時の私はゲームに出られるだけでよかったんだ」と述懐している。登板翌日も「毎試合でも出場したい」という大谷も同じ気持ちだろう。

 米メディアではルースとの比較論が出てきたが、ルースと大谷の時代の大きな違いはマドン監督が「DHがなければ投打の二刀流はあり得ない」と言うDH制度の存在がある。期間中に投手として166回1/3を投げたのに加え、野手として守ったイニング数はルースが615イニングもあったのに対し、大谷はわずか8回1/3。この差は大きい。

 それでも登板しながらDHとして出場し、本塁打だけで無く、ダイヤモンドを駆け巡る大谷の姿は素晴らしい。白人選手だけのリーグで7球団と限られていた昔と違って、外国人選手が4分の1を超え、対戦カードが18もある現代ではレベルが違うという関係者もいるが、チーム数が16球団と30球団を考えれば五分五分と考えるべきだろう。

 ただ、一つ言えることはルースがその後、打者に専念して通算714本塁打まで伸ばし、ヤンキースの第一期黄金時代を作ったという事実。大谷には来年以降もメジャーを席巻し続けることが、ルースとの比較対象の存在になることだろう。

 蛭間 豊章(ベースボール・アナリスト)

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