長嶋茂雄氏、杉浦忠氏と立大三羽ガラスだった本屋敷錦吾氏…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<18>

スポーツ報知
東京六大学野球・立大の優勝パレードでオープンカーに乗る(左から)本屋敷錦吾、杉浦忠、長嶋茂雄(1957年6月10日撮影)

 私は兵庫県の宝塚市という所に住んでいます。そう、あの“タカラジェンヌ”のいる宝塚です。この街に住んで、もう半世紀以上たちます。しゃれたお店がたくさんあったりして、とても住みやすい街です。

 前文が長くなりました。今回はトレードで阪神に来た選手のことを書くのでしたね。実は、宝塚に住むきっかけを作ってくれたのが、私が入団3年目だった1964年に阪急からトレードでやってきた選手なのです。立教大学時代には主将を務め、杉浦忠さん、長嶋茂雄さんと“立大三羽ガラス”と言われた、あの本屋敷錦吾さんです。

 私が主に守っていた遊撃、二塁には、常にライバルがいました。本屋敷さんが来られた時も「これで俺はまた二塁の控えか」と思ったものです。実際に本屋敷さんは移籍1年目、レギュラーとして優勝に貢献しました。

 ライバルではありましたが、面倒見のいい人でした。実は、本屋敷さんとは私が新人の年、知人の紹介で知り合っていました。食事にも度々連れて行ってもらっていて、初めて宝塚に行った時の店が有名なイタリアンレストランでした。その時以来、宝塚の街の雰囲気に魅せられ「いつかこんな所に住みたい」と思うようになったわけです。

 実際に入団2年目のオフに結婚して住んだのが宝塚。その後3年だけ甲子園球場の近くに引っ越しましたが、また宝塚に戻ってきました。本屋敷さんに連れてきてもらっていなければ、宝塚のよさに気が付いていなかったでしょうね。本屋敷さんは素晴らしい街を教えてくれました。

 同じポジションのライバルと言えば、私が入団4年目、65年に国鉄(現ヤクルト)から来られた土屋正孝さんもそうです。長野県1、2の進学校、松本深志高校出身。巨人時代から大きく構える打撃フォームや、物静かな言動が“剣豪”を思わせたのか「眠狂四郎」と呼ばれていました。阪神での愛称は「キョーちゃん」でした。私より4歳も年上なのに、初めて会った時、私を「安藤さん」と呼びました。私の年齢を知らなかったのでしょうね。トレードの時によくある話です。

 石川緑さんも忘れられません。私が入団した62年、中日からトレードで来られました。移籍3年目から2年連続2桁勝利を挙げ、64年9月30日の中日戦(甲子園)では先発して完投。胴上げ投手にもなりました。ただ、私にとってこの人はグラウンドよりも合宿所のヒーロー。飲んで帰ってくると、寝ている我々を起こして「今まで裕次郎と飲んでた」と報告? されるのが常でした。「裕次郎」とは、あの石原裕次郎さんのことです。「さっきまで裕次郎と一緒でな。〇〇を飲んできたよ」。私は下戸なので分からないのですが、カタカナの高級酒の名前を言っていました。そんなによく石原裕次郎さんと飲んでいたのでしょうか。あの話は本当だったのでしょうか。今では確かめようもありませんが…。

 さて、今回は私が現役時代にトレードでやってきた選手のことを書きましたが、次回はコーチ、監督時代に他球団から来た選手のことを。“あの投手”も“あの打者”も登場します。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は11月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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