北澤豪と100万人の仲間たち<19>「ドーハの悲劇」後に帰国した日本代表を待ち受けた空港での意外な光景

スポーツ報知
「ドーハの悲劇」のワールドカップアメリカ大会アジア最終予選敗退後に帰国した北澤豪。ブーイングを覚悟したがファンら300人に成田空港で労われる=1993年10月31日付紙面より

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(53)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

 ワールドカップ─。北澤豪にとってそれは、はじめは夢であり、やがて目標になり、そして現実になりかけた。

 最初の記憶は、1978年のアルゼンチン大会だった。地元・東京都町田市のサッカークラブに通っていた10歳のとき、小学校の体育館に集まって8ミリフィルムをメンバーたちと鑑賞した。当時は家庭用ビデオが普及しておらず、白い壁に投影される鮮明ではない映像ながら、海外の一流選手たちの高度な技術に目を奪われた。

 4年後の1982年スペイン大会は、NHKのテレビ中継を連日視聴した。ジーコ、ミシェル・プラティニ、そしてディエゴ・マラドーナらの足技について、読売クラブジュニアユースのチームメートと語りあった。

 「その頃の僕の意識は国内ではなく、完全に海外へ向いていました。それは僕の周囲のサッカーをしていた子どもたちも同じで、小学校時代のキャプテンなんてブラジルの中学校へ留学してしまいましたから。特に僕はブラジル代表の華麗なパス回しが好きで、ジーコ、ソクラテス、ロベルト・ファルカン、トニーニョ・セレーゾの『黄金のカルテット』に憧れていましたね」

 次の4年後の1986年メキシコ大会、さらに4年後の1990年のイタリア大会となると、本大会のみならず、アジア地区予選での日本代表のことも気掛かりになってきた。木村和司の直接フリーキックが有名なメキシコ大会の韓国代表戦や、イタリア大会の北朝鮮代表戦は、現地国立競技場でその戦いぶりを目の当たりにした。

 「社会人選手として国内リーグでプレーするようになると、やっぱり日本代表に目を向けますよね。どうして日本代表はワールドカップに行けないんだろうと思っていたんですけど、試合会場へ行ってみてわかったことがありました。スタンドには観客が3万5000人も入っていたんですけど、北朝鮮代表の先制ゴールが決まると、6割くらいの人たちが一斉に立ちあがって歓んだんです。ホームゲームなので観客がすべて日本代表を応援しているのかと思っていたら、そうではなくて在日の人のほうが多かった。これじゃ勝てねえや、そう思いました。案の定、その予選、結果的に日本代表は北朝鮮代表に競り負けて1次予選敗退でした。サッカーへの思い、ワールドカップへの願い、そういうものがこの国にはまだまだ足りていないんだなと」

 そして、そこから4年後のアメリカ大会のアジア地区予選、彼は日本代表選手となった。国内リーグ「Jリーグ」プロ化によって激変する環境下で、三浦知良やジーコやラモス瑠偉らとともに、日本サッカーの隆盛に一役買った。

 遠い夢でしかなかったワールドカップ出場という目標を、大勢のサポーターと共有できるようになった。

 「ダイナスティカップでもアジア大会でも優勝してアジアの王者になって、これならワールドカップへ行けると信じていました。あのドーハでの最終予選の最終戦、イラク代表戦のロスタイム、相手がショートコーナーを蹴ったときまでは。同点ゴールが決まってしまった直後、もう駄目なんだ、可能性はないんだとわかっているのに、他会場のイラン代表に、なんとかしてくれよって引き分けを願ってしまって…」

 他会場のイラン代表対サウジアラビア代表戦は、北澤の願いもむなしく3対4でイラン代表が敗北した。その結果、サウジアラビア代表と韓国代表の本大会への出場が決定した。それを伝え聞いたイラク代表戦の試合終了後、ピッチに倒れこんで動けずにいる選手たちを、彼はベンチから見つめた。

「もちろん、僕も悲しかったですけど、もし僕が途中出場できていたら、なんとか2対1のまま逃げきることができたかもしれないのにとか、そうすればピッチの選手たちをこんなに悲しませずに済んだのにと、悲しいというより、悔しくてならなかったです。それと、僕にはまた4年後にチャンスがあるかもしれないけど、年齢的にこの予選が最後だった選手たちに、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」

 近年、ハンス・オフト監督が指導者を引退した際に来日した。当時の日本代表選手たちが集まっての慰労会。そこで彼は、ふと思った。

 「直接、訊(き)いてみようと。なぜあのとき、僕を使わなかったのかと。僕を起用して勝利した前戦の韓国代表戦は、なんのためにあったのかと。だけど、そう言いかけて、やっぱりやめました。きっとオフトは、理由をいろいろ言うだろうなと。おまえを使っておけばよかったなんて、絶対に言うタイプでもないし。それに、歴史が変えられるわけでも、ないですしね」

 敗退から2日後の1993年10月30日、みな機内で黙りこんだまま、日本代表は帰国した。到着する成田空港では、周囲の期待に応えられずにまたも予選を突破できなかったことへの批判を彼は覚悟していた。

 「まだ携帯電話を持っていなくて、あの試合がどれだけ注目されていたのか(日本時間では深夜帯にも関わらずテレビ東京開局史上最高視聴率となる48・1%を記録)、そして結果が出たあと、どんな反応なのか、まったく知りませんでした。ワールドカップへ絶対に行くから応援してくださいと、偉そうなことを言ってきたんだから、どれだけ罵倒されても仕方がないよなと。ところが、空港で待っていたのは、300人ほどのファンたちで、『お疲れさま』と、みんな温かく労(ねぎら)ってくれたんです。予想外だったし、一緒に戦っていてくれたんだなと思うと、嬉しさはあったんですけど、一方では、もっと叩きのめしてくれよって。だって、もしこれがワールドカップ出場の常連国だったら、あとわずか数秒を耐えることができなかったという負け方は、許されるわけないでしょ?」

 翌1994年、日本代表が出場できなかったワールドカップアメリカ大会を、彼は現地ロサンゼルスで観戦した。大観衆9万3000人がローズボウルに詰めかけた開催国アメリカ代表対コロンビア代表戦。初めてとなるワールドカップの熱気に圧倒されながら、その試合後に起きた事件に驚愕した。優勝候補の一角と目されながら、その試合で痛恨のオウンゴール献上によって1次ラウンド敗退が決定したコロンビア代表。大会後、チームはアメリカで解散となったが、選手の多くは国民の非難を恐れて帰国を拒否した。 だがオウンゴールをしたアンドレス・エスコバルだけは国民への説明義務があると唯一母国へ帰国。暴漢の銃撃によって殺害されたのは、試合から10日後のことだった。

「あらためて、ワールドカップって、とんでもない大会なんだなと。もし、自分たちがここに来られていたらどうなっていたんだろうと、その答えを直接感じたいと思ってアメリカへ行ったんです。でも、そこには答えなんかなくて、ただ、それでもやっぱり、来たかったな、そして、4年後は、絶対に来なきゃいけないな、そう思いました」

 4年後の1998年ワールドカップフランス大会。初出場の悲願へ向けて、彼はまた同じ目標を追いかけはじめた。(敬称略)=続く=

◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

〇…フットサルW杯リトアニア大会のラウンド16に進んだ日本は23日(日本時間24日)、ブラジル代表と対戦。第1ピリオドを1-1で折り返したが、第2ピリオドで逆転され、2-4で敗退した。日本はスペイン、パラグアイ、アンゴラと戦った1次リーグで1勝2敗の3位だったが、ワイルドカードで突破。強豪ブラジル相手に粘り強い守備で善戦を見せたが、惜しくも初の8強入りはならなかった。日本サッカー協会のフットサル委員長を務める北澤氏は、応援に感謝していた。

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