“内角打ち名人”山内一弘さんの押しつけない理論…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<16>

スポーツ報知
阪神の投打のヒーローだった村山実投手(左)と山内一弘外野手(1965年9月2日・甲子園球場での巨人戦)

 トレードで来た選手が好成績を残してチームに貢献する例があります。一方、いわゆる“生え抜き”ではないけれど、チームに大きな財産を残してくれる指導者もいます。私は現役選手とコーチ時代に、他球団出身の指導者に数々の教えを受け、掛けていただいた言葉が後の人生の“金言”になりました。今回と次回はそんな指導者のお話です。

 オールドファンなら「小鶴誠」という名前はご存じでしょう。1950年、当時の日本記録となる51本塁打を打ったスラッガー。名古屋軍をスタートに松竹や広島で活躍された人です。阪神には私が入団7年目だった68年に打撃コーチとして来られました。

 小鶴さんから掛けられた言葉があります。「選手はちょっとしたきっかけで大きく変わることがある。あきらめずに頑張れよ」。それを自ら実証できたのが69年のシーズンです。ひょんなことでバッティングが大きく変わったのです。私は68年に左足アキレスけんを切る大けがをして、完治まで1年近く掛かりました。しかし、翌年に9ホーマー、70年に10ホーマーを打ちました。どんなに頑張っても年間2、3本しか打てなかった打者が大変身したのです。左足が痛くて打席で踏ん張れないため、右足に体重を残す打ち方に変えたら、それが成功したのです。まさに“ケガの功名”です。小鶴さんの言葉は指導者になってからも「選手は突然変わることがある。長い目でみてやらないといけない」という指導哲学になって生かされました。

 山内一弘さんと言えば“内角打ちの名人”です。内角のシュートボールをバットを腰の所に持ってきて体を回転させながら打つ。まさに職人の技でした。山内さんは64年、小山正明さんとのトレードで大毎(現ロッテ)から来られました。もちろん現役選手としてですが、バッティングのことを聞くと、何でもていねいに教えてくれました。コーチ、監督時代、教え始めたら「やめられない、止まらない」だった山内さん。そう。あの人はその頃から“かっぱえびせん”だったのです。

 ただ、山内さんの理論は難しく、何度やっても私はモノに出来ませんでした。「すいません。僕には出来ませんでした」と正直に言うと、山内さんは「そうか。合う、合わないがあるからな」とあっさり。自分の理論を押しつけようとしない。それがこの人の人間性の素晴らしいところです。

 打撃指導のうまさで山内さんと双璧だったのが元西鉄の“怪童”中西太さん。79年、阪神に打撃コーチとして来られた時、守備走塁コーチの私はノックを終えると「どんな教え方をしているのだろう」と、打撃ケージの後ろまで“見学”に行ったものです。山内さんが理論的なのに対し、中西さんの指導は「乗せ方のうまさ」にあります。言葉巧みに選手をその気にさせる。小さな大打者・若松勉選手(元ヤクルト)もそうやって教えたのだろうな、というのがうかがえる指導をしていました。

 さて、山内さんとは後に阪神と中日の監督として一戦交えることになり、“球史に残る事件”もありました。その時のことは改めて触れることにして、次回もお世話になった指導者の話をさせていただきます。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は9月15日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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