日本でも親しまれたベーブ・ルース 73年前の死去に際して、最初に追悼したのは日本プロ野球だった

スポーツ報知
1948年8月18日付報知新聞に掲載されたルース死去の記事

 8月16日(日本時間17日)、ヤンキースが本拠地のヤンキー・スタジアムで、大谷翔平投手所属のエンゼルスと、7月1日の降雨中止の代替試合を開催した。二刀流の元祖でもあるベーブ・ルースが亡くなったのが、偶然にも1948年の同じ日だったことが、改めてクローズアップされた。

 ルースはレッドソックス時代の1918年に13勝しながら当時の本塁打王となる11本塁打をマーク。メジャー史上唯一の「2ケタ勝利&2ケタ本塁打」をマークした、ご存じの通り、大谷の前の最後の二刀流選手だ。

 1920年ヤンキース移籍後は長打力を活かし外野手に専念。当時のメジャー記録でもあった714本塁打を放ったが、投手としても通算94勝をマークした左腕だった。だが、現役時代の不摂生もあったのか、1946年に左頸動脈への腫瘍が見つかった。

 そのこともあって、当時のハッピー・チャンドラー・コミッショナーが1947年4月27日を大リーグ全体で「ベーブ・ルース・デー」にすると発表。当日のヤンキー・スタジアムはセネタース戦、5万8339人の大観衆の前でルースは「皆さんも私の声がどんなにひどいかおわかりでしょう」で始まり、「みなさんに感謝の言葉を述べる機会を持てたことをうれしく思います。ありがとうございました」。のちにもファンの前に姿こそ現したが、スピーチはこれが最後だった。

 1948年は6月13日、ヤンキー・スタジアムで開場25周年を祝う記念式典が催され、他のOBらとともにルースは出席。背番号「3」のユニホームを着用していたが、往年の面影もないやせ細った老人の姿だった。7月21日には映画「ベーブ・ルース物語」の試写会にも参加したものの途中で退席した。

 病状が悪化してニューヨークのメモリアル病院に入院したルースの病状は随時、ラジオを通じて全米のファンに伝えられたという。クレア夫人が泊まり込んでの看病の甲斐も無く、8月16日午後8時1分に死亡が確認された。

 ちょうど、17日からヤンキースがワシントン、フィラデルフィアの遠征6連戦だったこともあり、遺体はヤンキー・スタジアムに安置された。亡くなった事を知って、10万人を越えるファンがスタジアムを弔問に訪れ、十重二十重と死を悼む人の列は途切れることはなかったという。

 そんなルースの死去は日本にも直ちに伝えられた。当時夕刊紙だった報知新聞は18日付けで、2頁しかない紙面の2面の左肩にルースの死去の記事を載せた。1934年、日米野球で13本の本塁打を打ったことで「大リーグ=ルース」だから当然だった。実は1947年、米国でベーブ・ルース・デーを行ったが、日本でも同じようにベーブ・ルース・デーを開催(翌年は4月28日)している。

 日本時間8月17日は、実は横浜ゲーリッグ球場で日本プロ野球初のナイトゲームが開催された日(巨人・中日戦)だった。球場の名称はスタジアムを接収した米軍が、同球場でプレーしながら41年に37歳で亡くなった強打者ルー・ゲーリッグから名付けていた。8時半過ぎに開始されたが、その直前に選手、ファンらが起立してルースの死を悼んで黙祷が捧げられた。米大リーグはまだ現地17日の試合が行われていない時間。そのため、ルースの死去への黙祷が最も早かったのは日本のプロ野球だったというわけだ。

蛭間 豊章(ベースボール・アナリスト)

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