日本プロ野球も終戦の日に黙祷を…戦争がない時代のありがたさ、尊さを若い世代に伝えたい

スポーツ報知
戦没者のめい福を祈り、黙とうが行われる甲子園球場(カメラ・義村 治子)

 夏の甲子園大会は3日間の順延から再開。第1試合の明桜・帯広農の一戦、正午に、終戦の日ということで恒例の1分間の黙祷が行われた。毎年、この日に行われる試合は正午に中断してサイレンを鳴らす中、選手、観客すべてが起立して黙祷する。例年ならお盆でもあり、超満員のファンと一緒に行われるのだが、今年はコロナ禍もあって、空席の目立つスタジアムでの黙祷でもあった。

 この時代、日常で戦争を振り返る数少ない機会だ。戦前の甲子園でエースとして大活躍した海草中の嶋清一、岐阜商の松井栄造、明石中の楠本保を始め戦火に散った野球人は少なくない。中でも昭和11年(1936年)夏に全国制覇した岐阜商では、松井だけでなく捕手の加藤三郎など5人が亡くなっている。彼らは東京ドーム内の野球殿堂博物館内「戦没野球人モニュメント」に刻まれている。

 一方、プロ野球関係者も巨人軍の沢村栄治を始め幾多の選手が亡くなった。こちらは東京ドーム敷地内に「鎮魂の碑」がある。「戦没―」に刻まれていたうち、2015年2月にプロ野球にも在籍していたとして大宮清(金鯱)、木村孝平(黒鷲―大和)、田中雅治(朝日)、渡辺敏夫(阪急)の4選手と、プロ野球公式戦前に退団しながらも、1935年の巨人第1次米国遠征に参加していた矢島粂安も「鎮魂…」に加わっている。

 矢島を加えると戦没した巨人関係者は11人を数えるが、最年少の22歳で亡くなったのが広瀬習一投手だ。大津商からプロ入り。1941年8月21日に黒鷲戦でチーム初のデビュー戦完封勝利を飾るなど20歳で21勝を挙げながら、その2年後に戦火に散った。実は戦前に初登板完封をマークした投手は7人だけしかいないが、そのうち3人までが戦争で亡くなっている。

 残り2人は、ともに中日の前身である名古屋軍の投手で村松幸雄、石丸進一。静岡の掛川中から入団した村松は1939年3月31日、セネタース戦でデビュー戦完封するなど、3年間で38勝したが、21歳で応召し、帰らぬ人となった。彼の功績をたたえ、背番号18は戦後の1948年まで欠番扱いだったという。

 石丸は佐賀商から内野手として入団。投手に転向し、1942年4月1日の朝日軍相手に初登板完封を達成。1943年10月12日、大和軍相手にはノーヒッターも完成させた。神風特攻隊で出陣し、帰らぬ人となったが、離陸する直前にキャッチボールをして「もう思い残すことはない」と話して飛び立ったエピソードは映画「人間の翼 最後のキャッチボール」でも描かれており、知っている人も少なくないだろう。

 きょうのソフトバンク戦前の円陣では、松田がナインに呼びかけ、1分間の黙祷をした上で試合に臨んだ。素晴らしいことだと思う。米国では毎年、5月の最終月曜日が「戦没者追悼デー」として休日となり、メジャー各球場では軍関係者などを招待する催しを毎年行っている。戦争がない時代のありがたさ、尊さを若い選手やファンに伝える意味でも、日本プロ野球も8月15日くらいは、日程をずらしてでも、戦没関係者を黙祷する機会を設けたいと考える。(蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト)

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