北澤豪と100万人の仲間たち<16>「27番目の選手」と告げられた日本代表選手が最終予選の土壇場で見せた価値

スポーツ報知
ワールドカップアメリカ大会アジア地区最終予選、北朝鮮代表戦で途中出場した北澤豪(写真左端)は勝利に貢献することに(1993年10月21日、カタール・ドーハ)

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(53)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

 「Jリーグ元年」である1993年は、日本サッカー界にとって激動の一年だった。プロ野球以来のプロスポーツリーグの誕生となったJリーグの開幕戦。その後の「サポーター」が流行語となったJリーグブーム。そして、のちに「ドーハの悲劇」と称されるワールドカップアメリカ大会アジア地区最終予選も、この年の出来事だ。

 「本当に濃厚な一年でした。自分のすべてを注ぎこんで挑んだ、忘れられない試合ばかりですから」

日本代表がワールドカップ本大会への出場を果たせずにいた1993年10月、北澤豪はカタールの首都ドーハにいた。1次予選を1位通過した日本代表を含む6チームによるアジア地区最終予選が当地で集中開催されたためだ。

 「宿舎の各フロアに機関銃を持った警備兵がうろついていたり、真夜中にジェット戦闘機が飛んで窓枠がガタガタと揺れたり、グラウンドへ出れば気温が摂氏50度を超えていたり、こんなところでサッカーをやるのかよと思っていました。食事も日本人調理師を厨房へ入れてもらえずに現地の料理ばかりで、神経が図太くないとやっていられませんでしたよ」

 それでも、日本代表の士気は高かった。1992年に初の外国人監督でオランダ人のハンス・オフトが就任して以降、同年のダイナスティカップ(現・東アジアE-1サッカー選手権)で国際大会初優勝を飾ると、広島で開催されたアジアカップも制覇した。ドーハ入り直前に国立競技場で行われたアジア・アフリカ選手権でもコートジボワール代表を下し、プロで構成されて短期間で急成長しつつある日本代表なら、ワールドカップ本大会の出場権をも獲得できると選手たちは信じていた。

 「僕が最初に韓国と対戦したとき(1992年7月27日、第15回日韓定期戦)、めちゃくちゃ相手が強くて0対1というスコア以上の差を感じました。でも逆に、僕らが韓国のレベルに追いつければワールドカップに出られるんだと前向きに考えました。そこからプロ化を挟んで、僕らは急速に力をつけていきました。水曜と土曜の週2回開催で、Vゴール(現ゴールデンゴール)方式で延長戦まである。いつも満員の観客の前で、選手たちは誰もが必死にプレーしたし、Jリーグに来てくれた超一流の外国人選手たちと対戦できたことも刺激的でした。オフト監督就任後の日本代表は韓国も含めたアジア勢には負け知らず(13勝無敗4分)でしたから、あとは総仕上げとなるドーハでの最終予選で勝ち上がるというだけ、という気持ちでいました」

 ダイナスティカップとアジアカップでは不動の右サイドハーフとして優勝に貢献した北澤だが、その後は怪我により一時メンバーから外れた。完治させて最終予選へ向けて事前に行われたスペイン合宿に再招集されたとき、オフト監督から意外な一言を告げられた。

 「『おまえは27人中27番目の選手だ』と。結局は22人に絞られたメンバーに選ばれたので、やった、5つも順番が上がったぜ、なんてね(笑)。それまでは、もちろん11人の中の1人と思っていましたけど、ドーハでは最後の1人なんだから、11人を後ろからどう支えるかという、自分にとっては初めての目線でチームを見ることになりました」

 その「27人中27番目の選手」が、日本代表にとって重要な役割を担う展開がいきなり訪れる。最終予選の初戦となったサウジアラビア代表戦で、チームは慎重な試合運びに終始してしまい、スコアレスドローでスタートダッシュに失敗した。さらには第2戦のイラン代表戦では1対2と敗戦し、2試合を終えて1分1敗の勝点わずか1と、6チーム中最下位へと転落した。

 「初戦のサウジ戦から、本来の力を出せていないように見えました。様子を伺っているような感じがあって、日本の良さ、攻守の切り替えの速さや、ラモス(瑠偉)を中心とした素速いパスワークがまるで出せないという状況でした。日本代表がアジアの王者になり、各チームから研究されて、ラモスに厳しいマークがつけられていることも影響していたように思います。ヤバいな、この展開はと思いました」

 2試合に先発した福田正博が、「追い込まれたどころじゃなかったですよ(中略)。もう、終わったような雰囲気でした」と日本サッカー協会公式ホームページ『経験者が語るアジア最終予選の真実』で回顧するように、チームはすっかり意気消沈してしまう。

 「勝てないでいると、練習中でもなにが正解かわからなくなって、誰からも声が出なくなるんです。監督だけが声を出している状態で、なんとなくみんなが閉じこもってしまっているような感じでした」

 練習後も、以前なら宿舎では各自が自室の扉を開け放し、そこを出てレクリエーション室で寛(くつろ)ぐ選手も多かった。だが2試合目の敗戦後は、扉を閉めきって自室に籠もってしまう選手ばかりになった。

 「このままでは最終予選が終わってしまう、なんとかして雰囲気だけでも変えなければ、そう思ったんです。そこに、誰かが日本から持ってきたマメカラ(当時流行したハンディカラオケ機)があって、これはもう歌うしかないなと(笑)。僕自身バカみたいだなと思ったけど、そうでもするぐらいしか打開策が思いつかなくて、大きな声で歌ったんです」

 北澤の行動に、同じく第2戦まで控え選手だった1歳年上のムードメーカー中山雅史も加わり、2人で何曲も歌いながら廊下を歩いた。

 「これは俺たちの役目でしょって、ゴンちゃん(中山)と一緒に歌いまくり、試合のことに入りこんでしまっている選手たちを、気分だけでも少し開放してあげなければと。閉じている扉をノックして開けさせて、みんなにも歌わせたり、僕がMCになってインタビューをして笑わせたりしてね」

 そんな、道化役を必死に演じた2人の控え選手が、このあとチームの流れを劇的に変えることになる。

それは、カラオケを歌った宿舎ばかりではなく、次なる第3戦の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)代表戦のピッチにおけるプレーでも。(敬称略)=続く=

 〇…東京五輪の男子サッカー3位決定戦で、日本はメキシコに敗れ惜しくもメダルを逃した。北澤氏は、スポーツ報知の紙上で試合を解説。「メキシコはしたたかだった」とし、「日本の攻撃の軸である久保と堂安にボールを持たせなかった」と分析した。ただ、日本の成長にも着眼。「日本の選手層は一気に厚くなった。期待が膨らむ」と9月から始まるW杯アジア最終予選へ視線を向けていた。

 〇…東京五輪の余韻も残る中、今月19日からビーチサッカーのワールドカップ・ロシア大会が始まる。日本はグループAでロシア、米国、パラグアイと対戦し、各組2位までが進める決勝ラウンドを目指す。2年前の前回パラグアイ大会は過去最高のベスト4だけに、目標は当然メダル獲得。JFAビーチサッカー委員長でもある北澤氏は「新しい日本のビーチサッカーを見せていきたい。応援、サポートいただいていることへの感謝を胸に、ベスト4以上の成績を目指したい」と期待を寄せている。

 ◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

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