「100万ドル内野陣」見て後悔「とんでもない所に入った」…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<15>

スポーツ報知
阪神・三宅秀史(本名、プレー当時は伸和)(1966年撮影)

 1960年代前半、三塁手・三宅秀史、遊撃手・吉田義男、二塁手・鎌田実で形成された阪神の内野陣は「100万ドルの内野陣」と呼ばれました。六甲山から見た神戸の「100万ドルの夜景」をもじったものです。大学時代、守備には少しは自信があったのですが、初練習でこの人たちの守備を見た瞬間、私は「とんでもない所に入ってしまった」と後悔しました。

 当時、三宅さんと吉田さんの三遊間は、巨人の長嶋茂雄さんと広岡達朗さんのコンビと並び称されました。長嶋さんと広岡さんが大型でダイナミックだったのに比べ、三宅さんと吉田さんは軽快で華麗。三宅さんが二塁へ送球してくる球はきれいな球筋で、悪送球はありませんでした。体も丈夫で、後にチームの後輩になる金本知憲に破られるまで、700試合連続フルイニング出場のプロ野球記録を持っていました。残念ながら、練習中にキャッチボールの球が左目に当たって負傷。記録がストップし、その後も往年のプレーが出来ませんでした。実は、そのキャッチボール。相手は私でした。しかし、私の球ではなく、近くで投げていた人の球がそれて当たったのです。不運としか言いようがありません。

 吉田さんは小柄で俊敏。取ってから送球までの早さも球界NO1で、誰が名付けたか“今牛若丸”。なかなかのネーミングです。どこのチームでもそうでしょうが、昔の先輩たちは後輩に何も教えてくれませんから、見て吸収するしかありません。吉田さんからは手で行かず、膝を落として走者にタッチする技などを盗ませていただきました。

 二塁手の鎌田さんは「バックトスの元祖」と言われる人です。初めて“名人芸”を見せられた時には面食らいました。何の予告もなくノールックで投げてこられたのです。それでもボールは私の胸の所に来ました。鎌田さんが使っていたのはせんべいのような形のグラブ。併殺の時にすぐ右手に持ち変えて送球するためです。参考になりました。

 窮地に陥った時も鎌田さんが助けてくれました。当時のレギュラー一塁手は2歳年上の藤本勝巳さん。球界にはよくあるケースですが、先輩の一塁手に対して「いい所に投げないと」と気にすると、投げるのが怖くなります。私も藤本さんには常に緊張しながら投げていました。そこへ助け舟を出してくれたのが鎌田さん。「ボールを投げたら、お前の仕事は終わりや。何も気にすることはないぞ」。このひと言がなかったら、私はイップスと戦わなければならなかったかもしれません。

 蛇足ですが、その鎌田さんと藤本さんがキャンプで同室になった時の話があります。2人とも寡黙な人でした。キャンプ初日。「これからしんどくなりますね」と鎌田さん。「そうやなぁ」と藤本さん。それから1か月近く。「やっと終わりました。しんどかったですね」と鎌田さん。「ほんまやなぁ」と藤本さん。2人がキャンプ中に交わした会話はそれだけだったそうです。

 さて、そんなレジェンドや生え抜きだけでチームが成り立っているわけではありません。次回はトレードで来て、チームに貢献してくれた選手に触れます。 (スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は9月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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