ジャンボ鶴田VSアントン・ヘーシンクこそ“リアル格闘技オリンピック”だった

アントン・ヘーシンクのプロレスデビューを伝える1973年11月25日付「報知新聞」
アントン・ヘーシンクのプロレスデビューを伝える1973年11月25日付「報知新聞」

 1964年東京五輪で柔道無差別級金メダリストに輝いたアントン・ヘーシンクさん(オランダ)が当時に着用した柔道着(オランダ・スポーツ博物館所蔵)が57年ぶりに“来日”し、駐日オランダ大使館に展示されている(オランダ大使館公式YouTubeチャンネルで9月5日まで公開)。

 2010年に76歳で亡くなったヘーシンクさんは、東京五輪を記念して採用された柔道競技の無差別級で、全日本王者の神永昭夫(富士製鉄、現日本製鉄)をけさ固めで押さえ込んで一本勝ちした。日本柔道史にとっては、汚点となっているが、その後にヘーシンクさんが日本でプロレスラーになったことは、オランダにとっては黒歴史だろう。

 ヘーシンクさんは、1973年11月24日に全日本プロレスの東京・蔵前国技館大会で、ジャイアント馬場と組んで、ブルーノ・サンマルチノ、カリプス・ハリケーン組を相手にデビュー。アルゼンチンバックブリーカーでハリケーンを仕留めるなど2-0で勝利した。その後、ゴリラ・モンスーンと柔道ジャケットマッチなどで盛り上げ、ワールド大リーグ杯争奪オープン選手権にも出場。そして、78年2月5日に東京・後楽園ホールで、ジャンボ鶴田のUNヘビー級選手権に挑戦した。

 熱血プロレスティーチャーこと元週刊ゴング編集長の小佐野景浩氏は「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」(ワニブックス)で、このヘーシンク戦について「鶴田のプロレス人生において、最初で最後の異種格闘技戦と言える」と記している。

 鶴田は72年ミュンヘン五輪のレスリング日本代表であり、オリンピアン同士の試合だった。試合は、ヘーシンクのけさ固めなど、グラウンドの攻防で総合格闘技のような展開を見せ、鶴田はジャンピングニーパット、サイドスープレックスでプロレスの見せ場を作った。最後は、手詰まりになったヘーシンクが、エプロンから鶴田にスリーパーホールドをかけて離さず、暴走の反則負けに終わった。

 プロレスVS柔道と言えば、この2年前の76年2月6日にアントニオ猪木(新日本プロレス)が、日本武道館で、ミュンヘン五輪2冠(無差別級、93キロ級)のウィリエム・ルスカ(オランダ)と格闘技世界一決定戦を行い、バックドロップ3連発でTKO勝ちしている。

 先週のこのコラムで、猪木VSウィリー・ウィリアムス(空手)が「格闘技オリンピック」という映画になったことを紹介したが、鶴田VSヘーシンクこそ、“リアル格闘技オリンピック”だった。

 馬場の全日本だったから、猪木の新日本のように話題にならなかったし、柔道王を傷つけることもなかった。ヘーシンクさんにとって、この鶴田戦がプロレス最終試合だったことも、あまり知られていない。(酒井 隆之)

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