三宅父娘二人三脚の21年間 「今出来る事を精一杯」の奥義は最後まで貫かれた

スポーツ報知
試技に向かう三宅宏実(左奧の手前は父・義行さん)

 東京五輪女子重量挙げ49キロ級で三宅宏実(35)=いちご=が24日、記録無しに終わり、現役引退を表明した。5大会連続の五輪出場は、柔道の谷亮子と並ぶ日本女子最多タイ記録で2人目の快挙だった。2012年ロンドン五輪では銀メダル、16年リオデジャネイロ五輪では銅メダルも獲得した。

 146センチ、49キロ。普段着で一見すると、優しい顔つきで五輪アスリートとは気づかない小さな体。顔を真っ赤にして大舞台で100キロ前後のバーベルを持ち上げるギャップには、驚かされ続けてきた。04年アテネ五輪、08年北京五輪の担当だった記者は、三宅父娘に大変よく取材でお世話になってきた。忘れられない言葉がある。

 2007年7月、埼玉・新座市の自宅に取材にお邪魔した。三宅が高校1年で競技を始めてから、毎日つけているという「練習日誌」を見せてもらった。法大4年生だった当時で、A4判のノートは既に25冊目だった。そこに何度も何度も記されていた父の言葉があった。「今出来る事を精一杯やれ」―。1968年のメキシコ五輪フェザー級銅メダルの父・義行さん(75)から授かった、三宅流奥義とも言える一言。16年間の競技生活の末に、父がたどりついた言葉だと伺った。重量挙げの練習は、バーベルを挙げる動作をただひたすらに繰り返す。「己との戦い。痛みに負けて逃げたらおしまい。強くなるには体と相談しながら、コツコツやるしかないんですよ」と父は話していた。

 父の兄・義信氏は1964年ローマ、68年東京五輪を2連覇したレジェンドだ。義行氏も「(兄と同じく)4度は五輪に出られる」と期待されたが、故障や手術の連続で1度しか五輪舞台には立てなかった。「五輪は4年に1度。けがとうまく付き合って運も味方にしないと出られない」という父の言葉には、重みと説得力があった。

 元々、母の影響でピアニストを目指していた三宅は、2000年シドニー五輪で初めて採用された女子重量挙げを見て「感動した」と自宅の台所で、初めてバーバルを握った。「やるからには五輪に出ろ」と父からは高いハードルも課されたが、同じ道を選んだ。その練習量は当時で1日6時間にも及んだ。「男子以上の練習量。でも、一度も練習をやめたいと言ってきたことはないんですよ」と義行氏は早くから才能を感じ取っていた。がっちりとした骨格を受け継いだ娘は、父娘二人三脚で世界の頂点を目指す生活を今日まで21年間続けてきた。

 2018年2月。弊社主催のマラソン大会でスターターを務めて頂く機会があり、十数年ぶりに三宅母娘と再会した。日本五輪史上3組目の親子五輪メダリストとなっても、全く変わらぬ謙虚な人柄で昔話に花が咲いた。東京五輪に向けた話を伺うと「実は腰が良くなくて…」と16年のリオ五輪後、故障が相次ぎ、思うような練習が積めないもどかしさも聞いた。

 それでも今年6月、開催国枠で東京五輪代表に内定した。その夜「つかんだこのチャンスを最後まで離さぬようにがんばります」と前向きなLINEを記者に送ってくれた。

 迎えたこの日のクリーン&ジャークの最後の試技は、テレビで拝見した。いつもと変わらずに顔を真っ赤にし、懸命に全力を尽くす姿。「今出来る事を精一杯」の奥義を、最後の最後の瞬間まで貫いていたように見えた。最愛の父の思いも胸に自分に厳しく、当たり前のことを当たり前のように積み重ね続けてきた先に、行き着いた2つのメダルと5度の五輪舞台の偉業だったかと思います。21年間、本当にお疲れ様でした。(榎本 友一)

スポーツ

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請