1964年東京五輪日本勢金1号・三宅義信さん開会式の思い出「ハトに“運”つけてもらった」

スポーツ報知
64年東京五輪を振り返る三宅義信氏

 1964年東京五輪で、日本勢の金メダル1号となったのが、重量挙げ男子フェザー級の三宅義信氏(81)=東京国際大監督=。68年メキシコ市五輪で2連覇を飾り、この日の開会式では日の丸を持って入場する「フラッグベアラー」を担った。開会式に際してスポーツ報知の取材に応じ、64年大会の“秘話”を公開。今大会で日本選手団の健闘を願いつつ、57年前の金メダルは「何にも代えがたい、人生の宝」と実感を込めた。

 57年前の10月10日。あの日は、めちゃくちゃ晴れて、まさに日本の秋晴れ、という感じだった。日差しはそこまで強くないけど、ブレザーを着ていたから暑く感じました。開催国の日本は入場行進が最後だから、とにかく待ったね…。おなかがすいて、チョコレートでもあれば良かったなとか、水ばかり飲むとトイレに行きたくなるから困るとか、そんなことを考えてました。

 2時間くらい待ったのかな。ようやく会場に一歩踏み出すと、オーってみんなが拍手してくれる。あれはすごいね。私たちはメインスタンドの前を歩きながら、号令に合わせて帽子を取ってあいさつ。会場に響く声の大きさは、強く印象に残っています。もう一つ印象的なのが白いハトです。選手宣誓の後に放たれたわけだけど、私達の上を飛んで行く時に、フンをしていった。閉じ込められていたのが解き放たれて、自由になったものだから…。服や帽子について困ったけど、これはウン(運)がついたなと思ったね(笑い)。

 私の競技は、開会式2日後の10月12日。60年ローマ大会では大会終盤にあった日程が、序盤に回された。「お前が取らなくて誰が金を取るんだ」と言われているようで、緊張感がすごかったですよ。寝ようと目をつぶっても、心臓がドクドクして寝られない。だから選手村では、マージャンやトランプをやっていた。マージャンといっても賭けではないですよ。駆け引きの練習とストレス解消をするんです。じっとしているなんて、頭がおかしくなりそうだった。

 それだけ苦労して取った金メダルは、やはり宝だね。何不自由なくとったメダルとは訳が違う。何にも代えがたい、人生の宝。両親や町の人、学校、全ての人の苦労が詰まっているんです。金メダルを取って、人生が変わる人、まぁまぁな人、全く変わらない人の3つに分けるとしたら、私は大きな収穫を得ているかもしれません。試合の時は、三島由紀夫さんまで新聞に原稿を書いてくださっていてね。実にいい書き方をするんですよ。やっぱり作家だなぁ、三島さんは。

 振り返ると、64年東京五輪は第2次世界大戦からの復旧、復興の象徴でした。皆で頑張っていこうって。新幹線が通って、高速道路が次々開通して、カラーテレビも出てきた。今回はコロナがあって、盛り上がりも比較できないね。一時は、8割もの人が反対だという数字も目にしました。もちろん、どの大会にも反対の人はいて当然です。100%賛成、という大会はない。ただ、64年大会は7割くらいが楽しもう、という雰囲気だったかな。だから今回は難しい。選手としては、より高く、より速く、より強くという“3原則”に忠実であるしかないね。

 五輪が開幕した以上、コロナ対策を万全にして、コンディションを整えて、精いっぱい悔いのない戦いをすることが大事。どれだけ練習し、研究し、どれだけの熱量を持ってこの大会に仕上げてきたか。最終的には、己を信じるしかないんですよね。やっぱり、五輪は華。国の文化の華なんですよ。閉会式において、皆が良かった、やっぱり日本はいい国だ、というようなね。言葉には出せなくても、動作とか、空気とか。そういうものがあれば、私は成功だと思っています。(取材・構成=細野 友司、手島 莉子)

 ◆三宅 義信(みやけ・よしのぶ)1939年11月24日、宮城・村田町生まれ。81歳。法大時代の60年ローマ五輪バンタム級銀メダル。卒業後は自衛隊入りし、64年東京、68年メキシコ市両五輪フェザー級で金メダル。73年の引退後は自衛隊体育学校長などを歴任。13年より東京国際大監督。弟の義行氏はメキシコ市五輪銅メダリスト。めいの宏実は12年ロンドン五輪銀、16年リオ五輪銅メダル。

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