江夏豊、田淵幸一バッテリーと長嶋茂雄さんの因縁…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<14>

1974年9月、長嶋茂雄と対戦する江夏豊(捕手・田淵幸一)
1974年9月、長嶋茂雄と対戦する江夏豊(捕手・田淵幸一)

 皆さんは「江夏の21球」をご存じですよね。1979年、広島と近鉄が戦った日本シリーズは第7戦の9回、守護神・江夏豊が無死満塁のピンチを断って、広島が日本一になりました。その江夏が9回に投げた21球と彼の心の内を描いた山際淳司さんのノンフィクションが「江夏の21球」です。特に、カーブの握りのまま外角に外して、スクイズしようとした石渡茂選手を空振りさせた投球は後世まで語り継がれています。

 しかし、あの投球を「たまたますっぽ抜けただけ」と言う人がいます。そんな人に断言します。「あの時、江夏は意図的に外角に外した」と。なぜ、そう言えるか。江夏が若い頃、同じことをやったのを、私が実際に見ているからです。

 江夏がまだ入団2、3年目くらい。巨人戦。打者は長嶋茂雄さんでした。二塁手からはバッテリーで交わすサインが見えます。捕手のサインは内角のストレートでした。右打者が内角を打つと一、二塁間に打球が来る確率が低くなります。私は重心を右足に掛けました。ところが、江夏が投げたのは外角高めに抜けるボール球でした。

 江夏ほどの制球力を持った投手が、なぜ捕手のミットと真逆のボール球を投げたのか。気になった私はベンチに戻ると江夏に聞きました。「サインは内角だったのに、何で外に投げたの?」。江夏の答えはこうでした。「投げる瞬間、長嶋さんが内角を狙っていると感じたので。このまま投げたら打たれると思って、外角に外しました」。若い投手にこんなことが出来るのか。私は驚きました。日本シリーズの投球も、だから「狙ってやった」と確信するのです。江夏はそれだけの技術を持った投手です。江夏は先発前日にはいつもマネジャーからスコアブックを借りて、一晩かけて前回対戦時の投球を洗い直していました。「天才」とはひらめきと技術と努力の結果なのですね。

 その江夏とバッテリーを組んだ田淵幸一は東京六大学野球のスター。入団した当時はスリムで、女性ファンにモテモテでした。ホームランは花火を見るような滞空時間の長さで弧を描きスタンドイン。ファンから「玉屋!」の声が掛かりそうでした。捕手としても捕球してから送球するまでが速く、強肩。走者が走るのが視野に入った瞬間に立ち上がり、投手にそこへウエストさせ素早く送球する高等技術を持っていました。

 でも、田淵というと今も目に焼き付いているのは死球。70年8月26日の広島戦で外木場義郎投手の投球を左側頭部に受けました。ホームベースに駆けつけると、昏倒した田淵の左耳から血がドク、ドクと流れています。思わず目をそむけました。しかし、田淵がすごかったのは、その後です。2か月近く入院する重症だったにもかかわらず、復帰後も「死球は男の勲章です」と言いながら、ボールを全く怖がらず内角球に踏み込んで行きました。左翼へのホームランを量産した秘密は、こんなところにもあったのです。まさに天性のホームラン打者でした。

 さて、小山、村山の両レジェンドエース、江夏、田淵のバッテリーと来ましたが、次回は「100万ドルの内野陣」を語ります。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は8月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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