北澤豪と100万人の仲間たち<14>左足の骨折を押して途中出場した、1993年Jリーグ開幕の歴史的一戦

スポーツ報知
1993年5月15日のJリーグ開幕戦。左脚骨折のけがを押して歴史的一戦に途中出場した北澤豪(右)(国立競技場)

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(52)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

 「Jリーグの誕生日」。5月15日はそう呼ばれている。1993年のその日、日本プロサッカーリーグ「Jリーグ」が開幕した。

 JSL時代から人気や実力が抜きんでていた読売サッカークラブと日産自動車、改め、ヴェルディ川崎と横浜マリノスの一戦が、他の4試合より1日先んじて開催された。

 その記念すべき試合を1年後に控えた1992年、北澤豪はすでに、読売サッカークラブとプロ契約をして2年目になっていた。プロの過酷さを痛感させられるかのように多くの試合に出場した。最終年となったJSL。プロリーグに先駆けて開催されたJリーグカップ。2年連続で日産自動車との決勝戦になった天皇杯。前年度リーグ戦覇者として参加したアジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ)。またクラブチームのみならず日本代表の試合でも、アルゼンチン代表とウェールズ代表を迎えたキリンカップ。広島で開催されたアジアカップ等々。そのうち3つの大会で優勝に貢献して役割は果たせたものの、その代償もあった。

 まず、1992年12月17日に行われたアジアクラブ選手権3回戦、国立競技場での遼寧FC(中国)戦でのこと。相手選手の膝(ひざ)蹴りを顔面に食らうかたちでピッチに倒れこんで左顎(あご)を骨折した。

「口からひどく流血して、歯と歯の間に隙間ができていたから歯が折れたのかと思ったら、顎が折れていたんです。それでもプレーを続けたんですけど、ヘディングをしたら気を失いそうなくらい痛くて。なぜかチームメートが僕を見て笑っていて、試合後に鏡を見ると顔が潰れていて、まるで僕が子どもの頃にテレビで流行していた“クシャおじさん”みたいでした(笑)」

 試合後に病院へ行くと、顎をワイヤーで固定されて即入院となった。口が開けられない生活が2週間続き、流動食だったがそれでもトレーニングを欠かさなかった。

 「休んでなんかいられないじゃないですか、Jリーグ開幕戦が迫っているんだから。腕立て伏せに腹筋、入院中でもできそうなトレーニングをいろいろやっていました。そんな気の焦りや過密日程が、さらなる怪我につながってしまったんでしょうね」

 Jリーグ開幕戦1か月前の1993年4月、左顎骨折を完治させて日本代表の沖縄合宿に参加した。だが今度は、その練習中に右足でボールを蹴った際、重心を預けた左足に激痛が走った。左足中足骨の疲労骨折で全治3か月と診断された。

 「Jリーグ開幕戦のことをカズ(三浦知良)さんは、『歴史に残る一戦なんだ』と言っていました。『歴史』という言葉を聞いて、当時の僕は社会科の授業を想像してしまったくらい、スケールが大きな、日本サッカー界全体にとって大切な試合なんだなと。その場にいられるチャンスがあるのに、怪我で台無しにしてしまうことなんてできない。開幕出場をあきらめられなくて、骨折してからどれだけの数の病院へ通ったかわかりません。非科学的な施術を受けに九州まで行ったりもしました」

 国内で彼だけが契約していたイタリアのスポーツ用品メーカー・ディアドラ社の担当者に依頼し、左足の中敷きの下に鉄板を装着した特注スパイクを用意してもらった。その上からテーピングで足とスパイクとを固定することで、動作する際に痛みを軽減させられることを思いついた。開幕1週間前から通常練習に復帰し、松木安太郎監督に出場を直訴した。先発メンバーには登録されなかったものの、どうにかベンチ入りにこぎ着けることができた。

 開幕戦当日の5月15日、国立競技場には高倍率の抽選に当選した5万9千人以上もの大観衆が詰めかけていた。選手の家族や知人が疎(まば)らで数えられるほどしかいない試合も多々あったJSL時代を知る選手たちの中には、その光景を見て涙している者もいた。いきなり初戦でプロ化の大きなうねりを目の当たりにし、北澤はしかし、感激している余裕などなかった。

 「アマチュア時代とはまるで別世界にいるみたいでした。だけど華やかな開幕セレモニーが始まっても、頭の中には、松木さん、俺を出してくれ、絶対にこの試合に出してくれ、それしかなかったです」

観客席で無数のチームのフラッグが振られ、チアホーンが鳴り響く独特の雰囲気の中、場内アナウンサーのカウントダウンが始まった。そして、19時29分、横浜マリノスのアルゼンチン人選手、ラモン・ディアスによるキックオフで、日本プロサッカー史が幕を開けた。

 「ベンチに座って試合を見ているなんてできなくて、キックオフ直後から走ってアップし続けて、いつでも行けますと松木さんにアピールしていました」

 試合が動いたのは前半19分だった。ヴェルディ川崎の左サイド、スリナム共和国出身でオランダ国籍のヘニー・マイヤーが右足で放った、ペナルティーエリア外約25メートルからの豪快なミドルシュートが決まった。その派手な「Jリーグの第1号ゴール」で歴史に名を刻んだ新加入助っ人選手もまた、アキレス腱を痛めていたが無理を押して来日し、チームに合流できたのが開幕1週間前だった。

 「年齢も、チームも、国籍も関係なく、あのピッチに立っていた誰もが、必死だったんです。カズさんのいう『歴史』、その新しい第一歩を俺たちが刻むんだという強い決意で、その日までやってきたんじゃないかな」

 1対0でリードして迎えたハーフタイム、松木監督から呼ばれて後半開始から武田修宏(たけだ・のぶひろ)との交替出場を告げられた。キックオフというJリーグの産声から約1時間後、彼はそのピッチに立った。

 Jリーグ史上初の途中出場選手として。鉄板を敷いたスパイクを踏みしめて。

(敬称略)=続く=

 〇…日本サッカー協会(JFA)が千葉・幕張海浜公園内に建設した「高円宮記念JFA夢フィールド」の開所セレモニーが、7月7日に執り行われた。愛称は「ピッチ・カリオカ」に決定し、ビーチサッカー日本代表の活動拠点となる。セレモニーには、フットサル・ビーチサッカー委員長の北澤氏をはじめ、日本ビーチサッカー連盟の長與博典会長、2005、2019FIFAビーチサッカーW杯で監督を務めたラモス瑠偉氏、茂怜羅オズ・ビーチサッカー日本代表監督兼選手、田嶋幸三JFA会長らが出席。ビーチサッカー日本代表が早速、新ピッチで初のトレーニングキャンプをスタートさせた。

 ◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

サッカー

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請