大島康徳さん死去 中日と日本ハムでプロ生活26年 先月は声かすれながら解説 生涯野球人だった

スポーツ報知
1994年9月、現役引退しナインに胴上げされる日本ハム監督時代の大島康徳さん

 中日、日本ハムで活躍し、引退後は日本ハムの監督も務めた野球評論家の大島康徳(おおしま・やすのり)さんが6月30日午前、大腸がんのため都内の病院で死去した。70歳だった。一発長打が魅力の大型打者で、43歳まで現役生活を送り、その後は古巣の監督、2006年の第1回WBCでは日本代表の打撃コーチを務めた。また、NHKの解説者としても人気を博した。通夜と葬儀・告別式は故人の遺志により近親者のみで行われた。

 懸命に闘病していた大島さんがついに力尽きた。大島さんは6月12日に米大リーグ、エンゼルス・大谷翔平の登板試合をテレビで解説。声がかすれながらも、延長戦にもつれこむ長時間試合を最後まで伝えた。その後、自身のブログでがんの肺への転移を告白した。

 6月24日夜には病院から自宅に戻り、在宅医療に入ったことをブログで報告した。同27日には次男が一緒に寝てくれたと、うれしそうに書き込んだ。同28日に「ブログを書くことが、きつくなってきました」と記し、その後は家族に更新を託していた。

 大島さんは2017年2月にブログで、16年10月下旬に大腸がんであることが分かり、すでに肝臓に転移、ステージ4であることを明らかにした。「余命1年」を宣告されたことも公表したが、以降もテレビでの解説をはじめ精力的に活動した。ブログは毎日のように更新。闘病のことだけでなく家族のことや日々の生活などさまざまな思いを明るく前向きに発信していた。

 1968年、大分・中津工からドラフト3位で中日に入団。実は高校入学まで野球の経験がなく、中学時代は大柄な体格を生かしてバレーボール部に所属していた。相撲も強く、相撲部の助っ人として大会に出場することがあったが、たまたま観戦していた中津工野球部監督の目に留まり、野球の道に進んだ。

 エースで4番として頭角を現し、68年秋に中日の入団テストを受験して合格、ドラフト3位での指名を受けた。この年の1位が明大・星野仙一投手だった。入団後間もない投球練習で1球を投げただけで、「投手失格」とコーチから言い渡されてしまったが、当時の水原茂監督が才能を見抜き、打者に転向させた。

 3年目の71年に1軍初出場を果たし、ジュニアオールスター戦ではウエスタン・リーグの主砲としてMVPに輝いた。しかし、当時はバッティングに波があり、完全なレギュラー定着とはならなかった。8年目の76年、シーズン代打本塁打の日本記録(7本)をマーク、翌77年には三塁の定位置を確保して打率3割3分3厘、27本塁打。79年には初の30本超えとなる36本塁打を記録した。83年に再び36本塁打で本塁打王を獲得するなど、中日の主軸として82年のリーグ優勝に貢献した。

 87年オフ、当時の星野仙一監督のチーム改革により、日本ハムに投手の曽田康二と共に移籍。既に37歳となっていたが、一塁手として起用され、90年8月21日、西宮での対オリックス戦で通算2000安打を達成した。39歳10か月での記録は当時の最年長記録で、2290試合を要しての大台到達も当時の最長記録だった。

 現役生活26年目となった94年のシーズンを最後に引退。その後、野球評論家生活を挟み、2000年から02年まで日本ハムの監督を務めた。06年に開催された第1回WBCでは日本代表の打撃コーチに就任し、準決勝の韓国戦では、イチローの打順を1番から3番にすることを王貞治監督に進言している。この大会で日本は優勝したが、「昔からオリンピックに出場するのが夢だった」と、金メダルを首にかけながら号泣した。

 ◆大島 康徳(おおしま・やすのり)1950年10月16日、大分・中津市生まれ。1968年、中津工からドラフト3位で中日に入団。初出場は71年6月17日のヤクルト戦で初安打&初本塁打。72年8月2日のヤクルト戦の2回、77年8月9日の巨人戦の6回に1イニング2本塁打を記録。1人で2度の記録はプロ野球で2人しかいない。36歳だった87年、元キャビンアテンダントの奈保美夫人と結婚。2男を授かる。83年に本塁打王を獲得。球宴出場4度。

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