今は投手が2桁勝利を挙げれば「一流」と呼ばれる時代です。今回はそんな尺度からは想像できない時代の話です。私が入団した1962年、阪神は小山正明投手が27勝、村山実投手が25勝。チームの75勝中、2人合わせて52勝を挙げ、セ・リーグ優勝の原動力になりました。当時、2人が投げて1、2点でも先に点を取ろうものなら「きょうは勝ったな」とベンチでささやき合っていたものです。
まずは小山さん。代名詞は「針の穴を通すコントロール」。球審の筒井修さんが外角低めの少しボールくさいコースでもストライクに取ると、捕手の山本哲也さんとのコンビで、そこへ投げ続けました。打者にとってはたまったものではないですが、球審が「ストライク」と言えばストライク。球審のクセを利用した小山さんのテクニックの勝利です。
小山さんの顔をご存じの方なら分かると思いますが、この人、一見するとこわもてで、近寄りがたい雰囲気を持っています。阪神に入団して初めてあいさつするまで、私の印象もそんな感じでした。ところが、一度話をするとこれほど気さくで優しい先輩はいません。私がエラーをして小山さんの足を引っ張ったことがありました。怒られるのを覚悟してマウンドで「すいません」と頭を下げました。ところが、小山さんは「抑えるから大丈夫や。心配するな」とひと言で済ませてくれました。こういう気づかいが野手の気持ちを楽にさせるのです。
そんな小山さんですから、私が監督をした82年から2年間、投手コーチをやっていただきました。ご存じかどうかは分かりませんが、関西のスポーツマスコミは「はしご外し」が得意技(笑い)。最初はもてはやしてくれても、いったん成績が悪くなると手のひらを返したようにたたきます。私の時も例外ではありませんでした。そんな時、小山コーチはいつも「何をいい加減なことを書いてんねん」と担当記者にくってかかっていました。防波堤になってくれたことを、今でも感謝しています。
村山さんは面倒見のいい人でした。私は2年目のオフに結婚したのですが、まだ関西での生活にも慣れない新婚夫婦に、自分のところのお手伝いさんをよこしてくれました。あの時は大変助かりました。
しかし、そんな村山さんがひとたびユニホームを着ると、人間が変わります。「勝負の鬼」になるのです。小山さんは少々エラーをしても「気にするな」で済ましてくれましたが、村山さんはそうはいきません。「しっかり頼むで」と言うその目が怖かった。背筋が凍り付きそうでした(笑い)。
村山さんのすごさは、内野手として後ろから見ていました。フォークが3種類もあるのです。右打者の外角にスライドしながら落ちる、シュートして落ちる、そのまま落ちる。3種類のフォークを自在に操っていました。もう芸術的でしたね。小山さんといい、村山さんといい、昔はすごい投手がいたのです。
さて、レジェンドはまだ多士済々。次回は少し若返って、江夏豊投手と田淵幸一捕手のバッテリーを語りましょう。(スポーツ報知評論家)
◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。
※毎月1・15日正午に更新。次回は7月15日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。