北澤豪と100万人の仲間たち<13>日本サッカープロ化へ、読売サッカークラブ移籍後に浴びたプロからの洗礼

スポーツ報知
1991年9月1日、古巣・本田技研とのJSLカップ決勝戦。読売クラブ移籍後初となる自身の決勝ゴールで優勝に貢献した北澤豪(名古屋市瑞穂公園球技場)

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(52)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

 ある出来事が人生を一変させることがある。北澤豪にとってのそれは、日本におけるプロサッカーリーグの誕生だった。

 修徳高校卒業後の1987年に本田技研工業浜松製作所(現・トランスミッション製造部、以下本田技研)に就職した彼は、同社サッカー部に所属するアマチュア選手だった。日本にプロサッカーリーグが発足すると初めて耳にしたのは、1990年に本田技研からブラジルのサンパウロFCに半年間サッカー留学をさせてもらっていた最中だった。

 「そのニュースが日本からファックスで飛びこんできて驚きました。プロ化なんて話はまったく聞いたことがなかったし、もし将来的にプロになるなら、このブラジルで挑戦するか、(木村)和司さんやラモス(瑠偉)さんみたいに日本でもプロ契約してもらえるような特別な存在になるかしか、道はないと思っていましたから」

 本田技研でまだ試合に出られずにいた入社当時の生活は、アマチュアそのものだった。化成課に配属されてオートバイ製造工場のラインに入り、新車のガソリンタンクに付着した汚れをブラシで除去する業務を担当した。初任給は13万円ほどで、社会保険料や諸税が引かれたのちの手取りは10万円にも満たなかった。サッカーに専念できる日は日曜日か祝祭日に限られ、ブラジルで目にしたプロ選手たちとは環境も待遇もまるで違った。

 「一番違ったのは、プロ選手たちの意識でした。紅白戦でさえ、まるで公式戦のように誰もが必死なんです。日々戦ってレギュラーを勝ち取ろうとそれぞれが血眼(ちまなこ)で、ライーやカフーら将来セレソン(ブラジル代表)の主軸になるプロ中のプロたちと一緒に過ごせて刺激になりました。僕は留学生でしたけど、もしなれるものなら、すぐにでもプロになって彼らとプレーしたいという意欲が芽生えました」

 しかし、帰国して間もなく、サッカー部のプロ化見送りが本田技研から発表された。本拠地である静岡県浜松市内にプロリーグ参入に相応(ふさわ)しい競技場がなく、また当時の国内経済の悪化など、理由は多々あるようだった。

 ブラジル留学を終えた北澤は、チームでレギュラーを奪取し、日本リーグ得点王にもなって、翌1991年には日本代表にも初選出されるまでに成長していた。

やがて、ホンダの宮本征勝監督が住友金属工業(現・鹿島アントラーズ)へ主力7選手を連れて移籍することが決定。北澤のもとにも、住友金属工業を始めとするプロリーグ参加予定の8チームからプロ契約での移籍話が持ちかけられた。一方、本田技研からも、第1工場管理課所属の部長待遇で、事務職として残留する社員としての安定の道も提示された。

 「本田技研からは、当時販売されて間もない高級スポーツカーのNSXに乗せてやるからと強く慰留していただきました。だけど、この年齢なのにここで胡座(あぐら)をかいてどうする、と思ったんです。パナソニック(現・ガンバ大阪)の釜本邦茂監督が浜松まで3度も足を運んで誘ってくださって、年俸もロマンを感じる額でびっくりしました。どうしようか迷ったんですけど、やっぱり僕が選んだのは、どうせプロになるなら、子どもの頃からずっと憧れていた、読売サッカークラブ(読売クラブ)でプレーしようと。読売クラブは8チームの中で提示額が一番低かったんですけどね(笑)」

 中学時代に在籍した読売クラブのジュニアユース時代は、与那城(よなしろ)ジョージやラモス瑠偉らトップチームで当時からプロ契約していた選手とともにプレーするのが夢だった。修徳高校に進学後はユースとの掛け持ちが認められず、部活動に専念せざるを得ないために退団。だが全国高校サッカー選手権大会に出場できても、本田技研で得点王を獲得できても、読売クラブでプロたちとプレーをするという夢が消えてしまうことはなかった。

 「高校卒業後、読売クラブに戻りたいと思ったこともあったんです。そのとき知人から『おまえなんてあそこでは半年でクビになる』と言われて、その通りだろうなと。それくらい素晴らしい選手たちが読売クラブには揃っていましたから。だけどそれから4年が経って、僕も日本代表の一員として、もしかしたらいまなら、読売クラブでも勝負できるんじゃないかと。挑戦するならこのタイミングしかないと」

 ところが、古巣のトップチームへ移籍してみて愕然(がくぜん)とした。加入直後から選手たちが会話をしてくれず、紅白戦ではまったくパスを回してもくれなかった。無視される日々が1か月以上も続くと、やはり読売クラブ移籍が無謀な挑戦であったようにも思えてきた。

 「あらら…、まるでイジメじゃないか、とんでもないところへ来ちゃったよと。移籍前まではラモスさんや(菊原)志郎から、『キーちゃん、うちのチームの力になってくれよ』なんて声をかけられていたのに、移籍後は目も合わせてくれないんですから。考えてみれば、2人とも僕とポジションがかぶっているから、新参者を蹴落とすくらいの気持ちがあるのは、プロならば当然なんです。仲良しクラブなんかじゃない。この厳しさこそがプロなんだと。それに気付いてからは、ピッチでは強引にパスを求めたり、ミーティングでラモスさんに反論したり、がむしゃらに存在をアピールしにいきました。紅白戦でドリブルをすると、チームメートなのに平気で削られましたけどね(笑)」

 加入から約1年後の1991年JSLカップ決勝戦でのこと。奇しくも読売クラブの対戦相手は、準決勝で強豪の日産自動車を破った、彼の古巣である本田技研だった。その大一番でようやく後半から出場機会を得られた彼は、プレーで存在感を示すことに成功する。2対2の同点で迎えた後半35分、2年前にブラジルのサントスFCから鳴物入りで移籍していた三浦知良への勝ち越しとなるアシストを決めた。さらに同点に追いつかれたあとの後半44分、決勝ゴールを決めたのは彼だった。

 優勝セレモニーで、ラモスや菊原、そして三浦らの輪へ入って歓びを分かちあった。その帰り、ゴールキーパーの菊池新吉から肩を叩かれてこう祝福された。「やっとチームメートになれたな」

 「プロって、こういうことかと。よそでどれだけのことをやってきたかではなく、このチームのためにどれだけのことをできるのか。過去ではなく現在の結果で認めてもらう、それしかないんだなと。読売クラブというプロ集団に、僕はプロとして大切なことを教えてもらえたような気がしました」(敬称略)=続く=

 〇…病気の子どもとその家族のための滞在施設「ドナルド・マクドナルド・ハウス」が誕生20周年を迎えたことを記念し、支援している北澤氏と女優の石田ひかりさんがトークセッションを実施。さらなる支援の輪を広げるため、「ハウスサポーターとしてできること」をテーマに語りあい、ユーチューブで動画配信している。

◆平山 讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

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