巨人と阪神で監督を務めた唯一のレジェンド・藤本定義さん…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<12>

阪神監督時代の藤本定義さん(1966年)
阪神監督時代の藤本定義さん(1966年)

 唐突ですが、私が入団して最初に付けた背番号が「1番」だったことをご存じでしょうか。そう。「9番」ではないのです。契約の時、希望して空いていた「1番」をもらったのですが、これが1日だけ。正確に言うと、3、4時間の命だったのです。

 キャンプ初日。背番号「1番」の新人は練習開始早々、藤本定義監督に呼び止められました。藤本さんは巨人の初代監督であると同時に、巨人と阪神で監督をしたただ1人の人でもあります。監督は私の背中を見て、首をひねりました。「うどんが走っているみたいやな」。私は当時、67キロくらいの細身。藤本さんには背番号の「1」が「うどん」に見えたようです。

 練習中、その年阪急から移籍してきた滝田政治選手と、監督に呼ばれました。「お前ら、ユニホームを交換しろ」。滝田さんの背番号は「9番」。そのひと言で私の「9番」が決まりました。誰かさん流に言うと「1番」は「まぼろし~」になりました。

 実現はしませんでしたが、私をスイッチヒッターにしようとしたのも藤本監督です。入団2年目、フロリダ・レークランドでのキャンプで、その年阪神に入ったヤシックという選手と50メートル走をやり、勝ちました(当時の安藤選手は俊足だったのです)。それを見ていた藤本監督が即断。その日からスイッチヒッターの練習を始めました。でも引っ張りは出来ても、流し打ちが出来ません。実戦で10打数1安打くらいしか打てず、スイッチヒッターも短命に終わりました。

 藤本監督と言えば、今でも思い出すシーンがあります。巨人戦の試合前です。我々選手が見ている前で、よく川上哲治監督を「おい、哲!」と呼びつけていました。後で考えれば、その姿を見せつけることで、我々選手の中にあった“巨人コンプレックス”を解消させようとしていたのだと思います。“神様”を「テツ」と呼び捨てる人を、我々は“じいちゃん”と呼んでいました。誰からも慕われていたことが、それで分かると思います。

 藤村富美男さん。ご存じ“初代ミスター・タイガース”です。私が入団した年にはユニホームを脱いでおられ、その後は他球団でコーチをされましたから接点はあまりないのですが、実は藤村さんとはすごい経験をしています。

 入団した62年。キャンプに備え、キャンセル待ちして乗った羽田から伊丹へ向かう飛行機の席が一番前。隣りにどこかで見た顔の人がいます。藤村さんでした。「タイガースに入った安藤です。よろしくお願いします」と緊張してあいさつすると「おおそうか。よく来てくれたな。がんばれよ」と激励されました。監督やチームメートと顔を合わせる前に、偉大な大先輩と鉢合わせするとは、何という幸運でしょう。

 野球に詳しくなくても、藤村さんの顔を覚えている人は多いでしょう。70年代後半、テレビ朝日系列の「必殺仕置き人」に出演されていました。元々寡黙な人でしたから、貫禄がある仕置き人の元締め役は“はまり役”でした。

 さて、次回は先輩レジェンドとの思い出話を書きます。まずは、小山正明さんと村山実さんから―。

 (スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は7月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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