プロ10年間一軍出場0からDeNA常務になった男 笹川博氏が半生を振り返る(その1)

スポーツ報知
笹川博氏

 プロ野球実行委員会になくてはならなかった男、DeNAベイスターズ元常務・笹川博氏が球界を離れてから1年が経った。ここで2年前に行ったトークショーで明らかになった彼の半生を振り返ってみたい。

 (聞き手・蛭間豊章=2019年6月1日・東京ドームホテル)

 笹川氏はかつて甲子園に通算7度出場した埼玉県有数の野球名門校・大宮高の「4番・捕手」として活躍。

1971年、大洋のドラフト7位で指名されプロ入り。同年、春夏連続甲子園に出場した深谷商の竹内広明投手がドラフト1位。竹内が1年目から一軍に出場したのに対し、笹川氏はイースタン・リーグでわずか11試合だけ。3年目の1974年に二軍の規定打席にも到達し、ジュニアオールスター戦に選出され7回から捕手として出場している。

 しかし、1981年現役を引退するまで1度も一軍出場無しで10年間現役生活を続ける“珍記録”を作った。現役引退後はスカウト、スコアラー、その後フロント入り。1998年に運営部長、2003年に業務部長。2009年から取締役・業務部門統括に就任した。

 ―大宮高校入学のきっかけは

 「浦和の中学校でプレーしていたのですが、当時の大宮高校・長谷川和雄監督が家までスカウトに来たんです。『入学試験を受けるんですか?』と質問したんですが、監督は『当然受けてもらう』と言われたことが一番印象に残ってます。野球部に入部して、2年生から度々、部室で上級生から説教を受けたんですが、ここにいる蛭間のようにそれが辛くて辞めたやつも多かったですが、自分は辞めようとは思いませんでしたね。中学では投手でしたが、高校では体の大きさが買われて捕手になりました。私は185センチありましたが、同じ学年で180センチ以上が私も含めて6人もいて大型チームと読売新聞に載ったこともあります。春夏通算7度も甲子園に出場していた名門で、私も含めて大いに期待していましたが、当時深谷商に竹内広明という速球投手に、2年生秋の県大会決勝で完封負け、夏の大会は準決勝で熊谷商にまた完封負けして甲子園という晴れ舞台は夢に終わりました。法大からの誘いでセレクションを受けましたが、当時の大洋のスカウトが1位で指名する竹内を見に来ていたんでしょうね。私も7位に指名されました。大宮高校野球部は選手にプレーが任されるような校風で、3年間きちんと野球を教えてもらったという思いはほとんどなかったです。その代わり、セネタース、大洋、広島などでプレーし、プロ野球通算1196試合に出場した長持栄吉さんが大宮の教育委員会にいて、この方に3年生のときに個人指導を受けていました。今でもプロ野球に入れたのは長持さんのおかげだと思っています」

 ―大洋に入ってみたら?

 「1位の竹内と7位の私ですが、埼玉のバッテリーが大洋入団とスポーツ紙を飾りました。あまり練習もやっていなかったこともありましたが、自主トレ、キャンプなどはついていくのがやっとでした。そういうわけで1年目はイースタン・リーグの出場もわずか11試合。2年くらいでクビになるかな、と思っていました。それでも捕手というポジションが幸いしたのでしょう。ブルペン捕手が不足ということで、昼はイースタン・リーグ、夜は川崎球場の暗いブルペンで投手の球を受ける日々でクビがつながりました。3年目にはジュニアオールスター戦に選出され、7回からマスクをかぶったこともあります。阪神の五月女(豊)さんからいい当たりの打球を打ったんですが野手に取られたのは印象に残っています。本番のオールスター戦では阪急の高井(保弘)さんが代打逆転サヨナラホームランを打った時の前座試合です。当時のペナントレースは終盤になるとベンチ枠が増えて、何度か一軍ベンチに入ることもありましたが出場0が続きました。また、キャンプでは肩が早く出来上がるということでブルペンで投げ、スポーツ紙で『捕手・笹川、投手に転向か』という記事が何度か出たことがあります。そういえば1977年、別当薫監督が5年ぶりに復帰したキャンプで『おまえ、まだいたのか。投手でもやって見ないか』と言われたことも。でもブルペンで投げるとその後、数日間は肩が痛くて実戦で一度も投げたことはなかったですね。二軍では2年目から出場数が増え、1977年にはリーグ最多の16二塁打。翌年も2本の代打本塁打を打つなど、それなりに結果を残しましたが、1981年に須藤豊さんが二軍監督に就任すると「(若手の)邪魔をするな」と言われ、現役ながら若手の教育係をやっていました」

 ―ここで現役時代の二軍の思い出を聞いてみましょう。

 「一軍で出場出来なかった悔しさはありましたが、今の選手のように厳しい制約も少なくて、それから見ればいい時代だったと思いますね。当時の二軍の本拠地は川崎市中原区にあった大洋多摩川。巨人、日本ハムも丸子橋近辺の多摩川沿いに隣接していました。大学の野球部の合宿所もあって、新丸子駅前には野球が好きな飲み屋も多くツケもききましたし、適当に遊ぶところもありました。私の場合は練習もやっていましたが、麻雀とゴルフの才能を発揮して、先輩や球団首脳の受けも良かったことも、捕手というポジションだけでなく、長く球団に居られた要因の一つだったのかもしれません。もっとも、そんな誘いを断って合宿でシャドーピッチングやバットスイングをしていた選手はどんどん一軍に上がっていきましたけれど(笑い)。私のような一般常識人よりも変人と思われた人間の方が選手として大成していきましたね。

 ―昔、ヤクルトの二軍フランチャイズだった武山球場についての印象は?

 「横須賀で遠かったのと、夏は海水浴客が多くて大変だった。そして周りが林になっていて、ヘビが多かったのも覚えています。私はヘビが大嫌いなので、ファウルボールが飛ぶと、他の選手に行ってもらった事。これが一番の思い出かな。今のDeNAの施設と球場は素晴らしいですよ」 

 1981年限りで引退しました。イースタン・リーグ通算444試合に出場しながら一軍出場0。プロ野球の二軍研究家、松井正さんに伺いましたところ、一軍未出場で二軍最多出場記録には西武ライオンズに在籍していた青木和義さんの543試合、佐野貴英さんの522試合があるそうですが、この2人は二軍の試合が多かった時代でともに在籍期間は8年。それを考えると64試合制が多かった時期に10年間1度も昇格しなかった笹川さんはプロ野球で希有な存在といえるでしょう(ベースボロジーvol14掲載)つづく

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