早大Vランナー・田原貴之さん、第2の人生 ビジネスでも走り続けた…「味の素」執行役員大阪支社長

1984年箱根駅伝1区を5位でタスキをつないだ早大の田原貴之(左)。2区の坂口泰が首位に立ち、早大は30年ぶりの優勝を飾った
1984年箱根駅伝1区を5位でタスキをつないだ早大の田原貴之(左)。2区の坂口泰が首位に立ち、早大は30年ぶりの優勝を飾った
田原さんは3回も力走した1区のコースに立ち、思い出を語った
田原さんは3回も力走した1区のコースに立ち、思い出を語った

 早大時代、1984年の箱根駅伝で母校の30年ぶりの優勝に貢献するなどエース格として活躍した田原貴之さん(57)は、卒業を区切りに競技の第一線を退き、大手食品企業「味の素」に就職。以来、35年以上も仕事に打ち込み、現在は「執行役員 大阪支社長」の重責を担う。「箱根への道」を全力で駆け抜けた早大時代と「箱根からの道」をビジネスマンとして走り続ける人生に迫った。

 伝説的な指導者の中村清監督が早大を率いていた1976~84年、競走部の中に「千駄ケ谷チーム」と呼ばれる超エリート集団が存在した。当時、競走部の本拠地があった東京・保谷市(現・西東京市)の東伏見ではなく、渋谷区千駄ケ谷の中村監督宅の周辺を拠点としていた。滋賀・水口東高時代、800メートルから10キロまで幅広い種目で活躍し、82年に早大に鳴り物入りで入学した田原貴之さんは中村監督の最後の“直弟子”だった。

 マラソン15戦10勝の瀬古利彦・現日本陸連長距離マラソン強化戦略プロジェクトリーダー、84年ロス五輪1万メートル7位の金井豊さんらエスビー食品の選手と共に中村監督に特別指導を受けた。「瀬古さんや金井さんは世界を目指すレベル。実力が全く違うので練習メニューは別ですが、一緒に走っていました。本当は東伏見の合宿所で生活したいと思っていたけど、千駄ケ谷のアパートで一人暮らし。週に1~2回、中村監督の家で夕飯を食べさせてもらっていました」と田原さんは懐かしそうに話す。

 70年代の前半、早大は箱根駅伝本戦に出場できない年があるほど低迷していた。名門復活のため、76年に中村監督が17年ぶりに現場復帰。カリスマ監督の熱狂的な指導で早大は力を取り戻し、84年の60回記念大会では優勝候補の筆頭に挙がった。当時2年の田原さんは重要な1区を任された。

 「重圧はありませんでした。しっかり練習ができていたので、本番でも走れるという確信がありました」。実力通り、堅実に走り、区間5位。早大は2区で首位に立つと、その後、独走し、2位の日体大に15分18秒の大差をつける圧勝で30年ぶりの復活優勝を飾った。エスビー食品の監督を兼務していた中村監督は、箱根駅伝復活Vを花道に早大指揮官を勇退。翌85年に亡くなった。「中村監督には心から感謝しています」と、田原さんは静かに話した。

 3年時も1区3位で早大の連覇に貢献。主将を務めた4年時、3年連続の1区で4位と好走したが、チームは最終10区で順大に逆転され、惜敗した。「2位でしたが、チームとして力を出し切ったので、悔いはありませんでしたね」と、すがすがしく振り返る。

 当時、早大千駄ケ谷チーム→エスビー食品という流れがあった。田原さんもエスビー食品入りを打診されたが、卒業を区切りに引退することを決めた。「瀬古さんのような才能はないし、瀬古さんのような努力もできない、と思った。モノを作って売る仕事をしたかった」。田原さんが就職した会社は、くしくもエスビー食品と同じ、食品企業の味の素だった。

 22歳で入社以来、味の素一筋。キャリアは35年を超えた。ビジネスマンとしてのモットーは「誠実」だ。「一人一人のお客様にとって何が一番いいのか、ということを常に考えています。その結果、継続して商品を購入してもらえる。小さいことの積み重ねが大事。何億円というような大きな仕事も重要ですが、チャリン、チャリンと小銭を稼ぐことをおろそかにしてはいけません」と、きっぱり話す。

 現在の肩書は「執行役員 大阪支社長」。早大の主力選手は、日本有数の企業でも“主力”になった。「陸上は個人競技ですが、箱根駅伝や関東学生対校はチーム戦。早大でチームとして戦うということを学びました。今、それが生きています」。箱根路で活躍した田原さんは、ビジネスの世界でも活躍を続けている。(竹内達朗)

◇陸上以外の分野で活躍する主な箱根駅伝OB

 ▽古川道郎さん 1963年、福島・川俣高から法大に入学。3年8区7位、4年10区7位。67年に卒業し、川俣町役場に就職。総務課長などを歴任。2002年に退職し、川俣町長に初当選。以来、4選。11年、福島第1原発事故によって町の一部が居住制限区域に。15年に脳梗塞を発症後も車いすで公務に当たり、4期途中の17年に辞職するまで復興に尽力した。

 ▽黒木亮さん(本名・金山雅之さん) 1976年、北海道・深川西高から早大に入学。3年3区13位、4年8区6位。80年に卒業し、都市銀行に入行。その後、証券会社、商社など金融ビジネスの第一線で活躍する一方で2000年に作家デビュー。03年から専業作家に。自伝的小説の「冬の喝采」は箱根駅伝ファンにとっては至極の一冊で、学生ランナーの間でも愛読者は多い。

 ▽半田禎さん 1980年、県千葉高から東大に入学。83年の予選会を7位で突破し、84年の本戦に出場。東大がチームとして本戦に出場したのはこの時だけ。20校中17位と健闘した。4年で主将だった半田さんは5区16位。84年に卒業し、東京海上火災保険に入社。21年、東京海上日動火災保険専務取締役経営企画部長に就任。

 ▽松本翔さん 2004年、宮崎・小林高から東大に入学。1年時に関東学連選抜(現関東学生連合)で8区10位。08年に卒業し、実業団の東京電力に入社。11年1月に引退し、その後はトップレベルの市民ランナーとして活躍。19年に渋谷区議会議員に初当選。現在も市民ランナーとして走り続けている。

 ▽梁瀬峰史さん 2006年、宮城・仙台育英高から中大に入学。1年1区17位、2年5区14位、3年4区23位。10年に卒業し、中大法科大学院に進学。14年に司法試験に合格。現在は弁護士として活躍中。

 ◆田原貴之(たはら・たかゆき)1963年6月8日、甲賀町(現甲賀市)生まれ。57歳。甲賀中3年時に全国中学大会800メートル優勝。水口東高では2年時に全国高校総体800メートル優勝。3年時に800メートルで当時の日本高校タイ記録(1分50秒9)。全国高校駅伝では2年連続で1区(10キロ)を走り、2年28位、3年2位。82年、早大入学。箱根駅伝は3年連続1区を担い、2年5位、3年3位、4年4位。86年、味の素に入社。現在は「執行役員 大阪支社長」。

1984年箱根駅伝1区を5位でタスキをつないだ早大の田原貴之(左)。2区の坂口泰が首位に立ち、早大は30年ぶりの優勝を飾った
田原さんは3回も力走した1区のコースに立ち、思い出を語った
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