北澤豪と100万人の仲間たち<10>「サッカーを始めさせ、続けさせ、そして終えさせてくれた父の言葉」

1975年4月、東京・町田第三小学校の入学式にて、当時35歳の父・弘仁さんと新入生の北澤=本人提供=
1975年4月、東京・町田第三小学校の入学式にて、当時35歳の父・弘仁さんと新入生の北澤=本人提供=

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(52)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

サッカーを始められたのも、続けられたのも、そして終えられたのも、北澤豪の選択には父・弘仁(ひろひと)の言葉があった。

「おまえにはサッカーが向いている」

小学校1年生のとき、父に言われて球蹴りを始めた。野球をやっていたという父だけに、異なる球技を勧められたのは意外だった。

「野山を駆け回ったり、木登りをしたり、やんちゃ坊主ぶりを見ていて、こいつは一つのポジションに当てはまらない、自由に走れるサッカーの方が向いている、と思ったんでしょうね。でも町田SSSに入っても、僕はそれほどサッカーに夢中になったわけではなく、砂場で山を作って遊んでいましたけどね」

むしろ熱心なのは父の方だった。タクシー運転手の深夜勤務が明けたあと、連日特訓を課す鬼コーチと化した。

「とてもじゃないけど時間内に走れないコースを設定されて、走破できなければ延々と、『もう1回!』と。僕が泣きそうになると、『名前をツヨシからヨワシに変えるぞ!』が口癖でした。鉄拳も飛んできて怖かったから、反抗もズルもせずに必死に走っていたら、持久力だけじゃなく、いつのまにかタフな精神力も身についていましたね」

小学校低学年のある試合で、PKを外したことでチームが敗れた。監督に怒られて悄気(しょげ)ていたところ、さらに父親に呼ばれて殴られた。 

「なんだよ、サッカーを知らないくせに、と内心思ったりしていましたけど、ある日、親父のカバンを覗いたら、サッカーの教則本が入っていて。この人なりに、僕のために勉強してくれているんだなと。一生懸命な親父にやらされるのではなく、自分から上手くならなければ、子ども心にそう思いました。ネットに向かって一点にボールを当て続けていれば、いつかネットが破れるだろうと狙いすまして蹴ってみたりして。自主的に練習するようになると、突然、親父は何も言わなくなりました」

サッカーをやめたいと思ったことが、若い頃の北澤にはたった一度だけあった。読売ジュニアユース、修徳高校を経て、親許(おやもと)を離れて静岡県浜松市に本社がある本田技研工業に入社した。塗装課で働きながらサッカー部に所属した2年目、二十歳(はたち)のときのこと。当時まだ珍しかった携帯電話はなく、社員寮の白雲荘に2台だけ設置されていた固定電話からメンバーに隠れて実家にかけた。

「どれだけ努力しても1試合も起用してもらえず、『やめたい』と親父に弱音を吐いたんです。怒鳴られるか、突き放されるかを覚悟していました」

しかし、意外にも父の言葉は優しかった。

「おまえ一人を養うことぐらい俺にはできるから、帰ってきてもいいぞ。おまえが頑張っていることはわかっている。ただ、頑張り方が違うんじゃないか。やっていることを見直してみろ」

後にわかったことだが、父は浜松まで練習をこっそり見に来ていた。息子には会わず、白雲荘の寮長や練習場のグラウンドキーパーとだけ会い、努力の様子を聞いて帰ったという。

北澤は会社をやめることなく、サッカーを続けた。父の助言通り「頑張り方」を見直し、その後、自身の課題やチームメートの特徴などを書き込んだノートは数十冊にもなった。むやみに努力するだけでなく、チームにとって自身をどう適応させるかを熟考するようになると、入社3年目に下部組織の教育リーグで得点王になった。4年目にはトップカテゴリーの日本リーグでも得点王になり、ヴェルディ川崎移籍後のJリーグや日本代表での活躍ぶりは触れるまでもない。

「親父の言葉がなければ、プロになってJリーグ開幕のピッチにも立てていませんでした。たまに実家へ帰省すると、僕の記事が載っている新聞のスクラップがありました。それに僕が実家を出るときには、新聞の折込広告の裏に、『初心を忘れるな』なんて置手紙をテーブルの上に残しておいてくれてね」

7歳でサッカーを始めて27年目、そんな父に現役引退を相談することは躊躇(ためら)われた。

「死ぬまでやれ、そう怒鳴られるんだろうなと」

けれども、電話口の父は、彼が二十歳のあのときのように、優しかった。

「引退後は、現役以上のパワーが必要になる。おまえが持っているパワーを現役ですべて使いきってしまうより、まだそれが残されているうちにやめるのも、いいんじゃないか」

現役続行という選択肢を、彼はこのとき初めて断念した。

「一番近くで、ずっと見守ってきてくれた親父の目にも、やっぱりそろそろ潮時だと映っていたんだなと。親父の言葉がなければ、やめられなかったかもしれませんね」

現役を引退した16年後の2018年、心不全を患った父・弘仁は、78歳で亡くなった。サッカー解説者となり、また、世界各地の子どもたちへサッカーボールを届けるようになった息子の姿を見届けて。

葬送に際し、なぜか彼は気丈だった。涙も流れなかったし、日頃の姿とあまり変わりない穏やかな心境でいられることに、周囲よりも自分自身が一番意外だった。

「親を亡くすことは、誰にとってもつらいはずでしょ。なぜ僕は、あまり悲しまずにいられるんだろう…。それは、まだ親父が、すぐ近くで、一緒にいると思えるからかな。強気で、前向きで、ときには優しいことを言ってくれてきた言葉が、いつも僕の心に残っているからかな。だから、亡くなっても、いまだに夢にも出てこないのかな」(敬称略)=続く=

◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

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