川上哲治さんからの誘いを断る「僕は巨人を倒すチームに入ります」…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<9>

左から長嶋茂雄さん、川上哲治さん、王貞治さん(1970年・後楽園球場)
左から長嶋茂雄さん、川上哲治さん、王貞治さん(1970年・後楽園球場)

 我々世代の人間にとって、川上哲治選手は「神様」です。「赤バットの川上」「青バットの大下」は野球少年のあこがれでした。

 川上さんを初めて生で見たのは土浦二中の時です。水戸市内にある水府球場に試合でやってきた巨人を、汽車に乗って見に行きました。相手チームも試合内容も覚えていません。試合後の方が興奮しましたから。帰りの汽車が巨人の選手と一緒になったのです。我々と同じ三等車に乗っていました。チャンス到来。私は手帳と鉛筆を手に4人掛けの座席に座っている選手を直撃しました。忘れもしません。川上、青田昇、南村侑広、千葉茂の4人です。千葉さん以外の3人からサインをゲットできました。

 そんなあこがれの川上さんの誘いを断ってしまいます。慶大4年の秋、東京・新橋の料亭で、巨人の監督になった川上さん、沢田幸夫スカウトから入団を打診されましたが「光栄です。でも、僕は巨人を倒すチームに入ります」と、断ったのです。子供の頃からあまのじゃく、強い者に向かっていくのが好きでした。それに、西宮市生まれの“血”のせいか、物心ついた頃から阪神ファンでした。「呉、金田、別当、藤村、土井垣、本堂、長谷川…」。今でもその頃のスタメンをそらで言えます。

 後日、巨人の後輩でもあり、親しかった寺本哲治さん(元報知新聞社員)に川上さんはこう言ったそうです。「あいつ、面と向かって断りやがったよ。骨のあるやつだから、面倒みてやれ」。話を聞いて「何と心の広い人だ」と感激しました。私は70年に一度だけオールスター戦に出場していますが、その時、監督推薦で選んでくれたのは川上さん。今でも感謝しています。

 ところで、川上さんの誘いを断った私ですが、慶大OBの水原茂さんが監督をしていた東映(現日本ハム)からも誘われていました。直接は会っていませんが、親族によると東映は「巨人より500万円多く出す。ぜひうちに」と言っていたそうです。結局、私は一番条件が低かった阪神に入りました。今ならカネに目がくらんで、東映を選んでいたかもしれません(笑い)。

 現役を終え指導者になってからも、川上さんは私のことを気にかけてくれていたようです。詳しいことは後に触れますが、84年、本塁打王を争っていた掛布と中日・宇野勝選手との“四球合戦”が社会問題にも発展、これをきっかけに球団とあつれきがあり、監督を退くことになりました。その時、一席設けてくれたのが川上さんでした。メンバーは川上さん、前出の寺本さん、藤田元司さんもいました。「監督というのはいろいろある。我慢しなさい」と諭されました。その時はすでに退団を決意した後で、翻意するには至らなかったのですが、他球団の人間、しかも、自分の誘いを断った男を心配してくれて。忘れられない思い出です。

 さて、巨人と言えば長嶋茂雄さんと王貞治さん。お二人に触れないわけにはいきません。ライバル球団でしたが、私には2人に対して思いがあります。次回は球界のトップ2との思い出を語ります。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は5月15日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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