北澤豪と100万人の仲間たち<9>「引退を決めようとした北澤へカズからの言葉」

スポーツ報知
北澤は真っ先に尊敬する三浦知良に引退の相談をした。ヴェルディ黄金期の1993年12月、第2ステージ優勝を喜ぶ2人

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(52)。波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に記事を公開していく。

 カンボジアから帰国後に開幕した2001年のJリーグ、北澤豪は苦戦していた。

チーム名をヴェルディ川崎から東京ヴェルディ1969に、ホームスタジアムを神奈川県川崎市の等々力陸上競技場から東京都調布市の東京スタジアム(現:味の素スタジアム)に変更した最初のシーズン。23試合に出場こそしたものの、術後の右膝の痛みが消えることはなかった。

「リハビリ期間を終えても右膝が真っすぐには伸ばせない状態で、走ることや蹴ることが自分のイメージ通りにできないんです。勝利に貢献することも、チームを一つにまとめることもできるわけがなく、プレーしていてもまったく思うようにいかなかったです」

彼の不調と合わせるかのように、チームはファーストステージで最下位へと転落した。松木安太郎が監督を解任され、読売クラブ創設時からのメンバーで北澤がジュニアユース時代から知る小見幸隆が新監督に就任した。そうして戦ったセカンドステージも9位がやっとで、年間総合14位でのJ1残留はJ2自動降格圏の15位から勝ち点3差しかなかった。さらに天皇杯では、チームが去ったあとの川崎をホームタウンとするJ2の川崎フロンターレ相手に敗退するなど、もはやJリーグ発足時にタイトルを総嘗(そうな)めにした黄金期の面影はなかった。

「1998年にはカズ(三浦知良)さんや柱谷(哲二)さんが去り、このシーズン限りで1歳年上の武田(修宏)さんや菊池(新吉)さんが引退しました。クラブとして一つの時代が終わった感じがありましたね。カズさんが移籍するとき、実は僕もこのタイミングでチームを去るという選択肢もあったんです。だけど僕まで出ていってしまったら、チームが本当にバラバラになってしまう気がしてね。中学生からこのクラブにお世話になって、偉大な先輩たちから受け継いできた伝統を、ここで途絶えさせてしまいたくなかった。キャプテンを任されていたし、もう一度立て直してなんとかクラブを復活させなければと」

翌2002年、日本はワールドカップの自国開催に沸いていた。北澤はといえば、4年前のフランス大会直前合宿で岡田武史監督によってメンバーから外された後も、フィリップ・トルシエ監督から招請されて1999年までは日の丸をつけていた。だが膝の怪我により代表キャップ数は58で途絶え、本国でのワールドカップは蚊帳(かや)の外にいた。同時に2002年はJリーグでの出場も4試合にとどまり、否応なく「引退」の二文字がちらつき始めた。

「以前は引退することはもちろん、その先の将来のことなんて、まったく想像できませんでした。でもカンボジアを訪れたことで、視野が広がったことが大きかったんです。カンボジアの子どもたちが初めてボールを蹴る姿を目にして、ああ、自分が一生懸命にやってきたことを伝えることで、誰かを喜ばせることもできるんだなと初めて気付けましたから」

真っ先に相談したのは、尊敬するプロサッカー選手で、ピッチでもそれ以外でも、いつも自分の前を走り続けてきた存在、三浦知良だった。当時、北澤は自宅を改築中で、ヴィッセル神戸へ移籍して関西にいた三浦の東京の自宅に仮住居させてもらっていた。ある晩、その本人の家から電話をすると即答された。

「なにいってんだよ、やめねえだろ、と。僕の中でもかなり苦しんで、悩んで、もう結論を出さなければと思って相談しているんです。だけどカズさんは、なに言ってんだよ、やめねえだろ、と。それしか言ってくれませんでした」

 それは、この年から20年が経過した現在でもなお現役であり続け、自らが持つJ1の最年長出場記録を更新している三浦ならではの激励だったのだろう。たしかに、まだ現役を続行する選択肢も、北澤にないわけではなかった。怪我が回復すればヴェルディでの出場機会も増えるだろうし、また彼のもとへはコンサドーレ札幌の監督に就任していた際の岡田武史元日本代表監督から獲得オファーが届いたこともあった。

「僕自身も、できることなら引退なんてしたくなかった。だから右膝を動かせない時期であっても、上半身なら鍛えられるじゃないかと、ジムでベンチプレスばかりやって、バーベルを160キロまで挙げられるようになってボディービルダーみたいな体になっていましたから。ここまでずっと全力で突っ走ってきたから、走ることを突然やめてしまうことなんてできなかったし、気持ちのやり場がなかったんです。だけど、どれだけ現役を続行したいと願ってみても、このままではプロとして期待に添えないことは、誰よりも自分自身が一番よくわかってしまっていて」

引退を決意するにしても、もう一人だけ、告げておかなければならない人物がいた。それは、小学1年生のときにサッカーを始めるきっかけをくれた、父の弘仁(ひろひと)だった。

「ただね、うちの親父が言うだろうことは、聞かなくても容易に想像ができたんです。それはもちろん、カズさんと同じ。なぜなら昔から親父は、いったん始めたことは死ぬまでやり通せ、そういう頑固一徹のタイプでしたから。きっと、まだ可能性がある限り、現役続行は当然だと」

けれども、父の言葉は、北澤にとって思いがけないものだった。(敬称略)=続く=

 〇…東京V元キャプテンの北澤氏は、4月21日に都内で行われた東京V主催の「SDGs²スタジアム2021キックオフトークセッション」に参加した。SDGsは、国連が掲げる「持続可能な開発目標」。東京Vも普及活動に取り組んでおり、その一環として催された。日本障がい者サッカー連盟会長でもある北澤氏は「スポーツを通じて実現するノーマライゼーション社会」をテーマにした第2部で登壇。スポーツの力による問題解決への期待感などを示していた。

◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

サッカー

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請