岡田彰布をなぜブレイザー監督が使わなかったか…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<7>

阪神・岡田彰布がセリ-グ20000号を放ち、記念ボールを手にする(1980年8月19日)
阪神・岡田彰布がセリ-グ20000号を放ち、記念ボールを手にする(1980年8月19日)

 掛布、バースと来て、今回は岡田彰布です。伝説の甲子園でのバックスクリーン3連発は私が監督をやめた翌年、1985年4月17日の巨人戦での快挙でした。岡田は2人が打つのを目の前で見ていますから、プレッシャーは3人のうちで一番かかったはずです。そんな中で打ったのですから、たいしたものです。

 大学4年間の通算が、打率・379、81打点(ともに歴代1位)、20本塁打(同4位)。早大時代の成績は東京六大学野球史上に残ります。79年のドラフト会議、地元大阪出身の大学野球のスターを1位指名で引き当てたのですから虎ファンは驚喜しました。

 が、80年の内野陣、岡田が大学時代に守っていた三塁には掛布、遊撃には真弓がいました。ヤクルトからトレードでヒルトンも獲得していました。監督はブレイザー。私は守備走塁コーチでした。岡田は即戦力でしたが、メジャーではどんなに力がある選手でも「1年目は育てる年」という考えがあったようで、ブレイザーはヒルトンを使い続けました。ところが、開幕から打率が2割にも届かない。阪神ファンからブーイングが起き、5月に入ると球団はヒルトンを解雇。この処分を巡って球団と対立したブレイザーも退団しました。

 そんな騒動の中、岡田は打ち続けました。入団早々、打撃練習を見て感心したのですが、内角球のさばき方は一流でした。経験が浅い二塁のポジションでも、併殺を阻止しようとする走者との接触を怖がらず、勇敢なプレーを見せました。

 私が監督に就任した82年に初めて3割を打つなど、順風満帆だった野球人生。一変したのは83年です。甲子園のぬかるんだグラウンドの守備で股裂きのような体勢になり、右太ももの筋肉を断裂する大けがをしました。医者から「今度やったら選手生命にかかわります。完全に治るまでは使わないでください」と言われました。完治したら再び二塁に戻すつもりで、私は岡田を一時的に外野にコンバートすることを決めました。将来がある選手をつぶさないためには、それしかありませんでした。翌年には足が治って二塁に戻りました。その後の活躍は、皆さんがご存じの通りです。

 岡田は監督としても成功しました。ジェフ・ウイリアムス、藤川球児、久保田智之の頭文字を取った「JFK」の必勝リレーを作ったのは岡田監督です。05年には優勝もし、指導者としての地位を確立しました。

 しかし、08年、最大13ゲーム引き離しながら巨人に逆転優勝を許すと「逆転されたのは監督の責任」と、その日のうちに辞任を決意しました。誰かが悪者にならないとおさまらないのが阪神。それを岡田は知っていました。そのいさぎよさに驚いたものです。

 さて、バース、掛布、岡田と書いて来ましたが、スポーツ報知で巨人のことを書かないと怒られますね(笑い)。次回は巨人。でも、トップバッターは、ONでも川上監督でもありません。私にとっては大恩人、慶大の先輩でもある藤田元司さんとの思い出話から始めます。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。81歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は4月15日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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