ランディ・バースをベンチ裏でしかったこと…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<6>

スポーツ報知
阪神時代のランディ・バース(1985年10月27日、西武との日本シリーズ)

 さて、いよいよバースのお話を―。1983年、チーム浮上の切り札として獲得した助っ人はオープン戦の初戦で2ホーマーを打ちました。順調なスタートに、監督2年目の私は「今年は打ち勝つ野球が出来る」と喜んだものです。

 ところが、バースはオープン戦中盤、死球を受けて左手首を骨折。その後のオープン戦を欠場しました。復帰したのは開幕5戦目。調整不足の上、オープン戦で主力投手と対戦していません。苦労するのは目に見えていました。

 デビューから15打席無安打。昨年、ボーアが18打席無安打で新助っ人の開幕からの無安打の球団記録を更新しましたが、それまでの記録保持者はシーズン最高打率3割8分9厘の日本記録を持つバースだったのです。それでも徐々に調子を上げて、・288、35ホーマー、83打点。1年目としては十分な成績でした。

 バースには何度も感心させられました。試合中、ベンチで話をしていても、投手が投球動作に入ると、投手を凝視します。フォームにクセが出ていないか見るのです。当時、横浜大洋のエースだった遠藤一彦。150キロ前後のストレートと落差の大きなフォークに阪神も苦しめられました。その遠藤がフォークを投げる時のクセ、グラブがわずかに開くのをバースが見破りました。他の選手には見つけられない独特の“眼”でした。ジム・ファニングスさんが絶賛した「観察力」とは、まさにこれでした。

 ホームランを打ってもガッツポーズはせず、淡々と塁を回りました。「打たれて落ち込んでいる投手に追い打ちをかけるようなことはしたくない」というのが相手を思いやるバースの考えでした。人間性も称賛に値しました。

 実は、1度だけプレーをたしなめたことがあります。1年目。内野フライを打ち上げると、バットを持ったまま走って途中からベンチに帰って来ました。私は彼をベンチ裏に呼ぶと「アメリカでもこんな野球をしていたのか」としかりました。「悪かった。二度とこんな走塁はしない」と直立不動で約束してくれました。

 2年目の84年も不運なことが起きました。父親のフレッドさんが重い心臓病で危篤状態に陥ったため、オールスター戦の出場を辞退して帰国。後半戦再開から15試合欠場しました。チームは5割を維持して優勝を狙える位置にいましたが、バースの離脱とともに失速。4位に終わりました。

 85年、バースは三冠王になりました。その前年で監督を退任していた私は、毎日放送のオフの番組の企画でオクラホマ州にある彼の自宅を訪ねました。バースは他局の取材を全て断っていましたが「安藤が来るなら」とインタビューを快諾してくれました。取材後、別れ際に彼がぽつりと言った言葉を思い出します。「安藤さんが監督をしていた時にアクシデントでフルに働けなくて申し訳なかった」。ずっと彼の心の中に引っ掛かっていたのでしょう。

 さて、掛布、バースと来れば? そう、次回はバックスクリーン3連発を締めくくった岡田彰布君のことを書きます。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。81歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は4月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

野球

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請