北澤豪と100万人の仲間たち<6>「大量虐殺の処刑場と鉄条網のスタジアム」

スポーツ報知
内戦で傷ついたカンボジアの子どもたちには表情がなかった=本人提供=

 元サッカー日本代表、北澤豪氏(52)は波瀾万丈の競技人生を疾走し、現在は世界の子どもたちを支援する環境づくりを目指している。その軌跡とビジョンを、ノンフィクション作家の平山讓氏が独占取材。毎月10日と25日に公開し、長期連載する。

 北澤豪にとってカンボジアは未知なる国だった。1970年に始まった王国からのクーデターと、そこから20年以上も続いた内戦。共産政権の樹立とポル・ポト派の独裁。そして思想弾圧や強制収容や大量虐殺。それら陰惨な現代史は、北澤のみならず、2001年当時はほとんどの日本人が詳しく知らなかった。

 「事前に学ぼうにも、日本人が入国したケースさえ少なかったんです。あえて先入観を持たずに現地で見たり聞いたりするのもいいかなと、何も調べないままに訪れました」

 子どもたちにボールを届ける前に、2か所見学することになった。まず訪れたのは首都プノンペン市内にある、当時はまだ「トゥールスレン(毒の木の丘)」という地名でのみ呼ばれていた施設だった。そこは元学校だったらしく、校舎が4棟と校庭らしき広場があった。

 「敷地内へ入ってみると、元校舎の壁や校庭の至る所に血痕がこびり付いていたり、人骨が転がっていたりして、言葉を失いました」

 「虐殺博物館」と後に命名されるそこは、1976年4月頃よりポル・ポト派が反革命分子を拷問、処刑する場に転用した政治犯収容所跡だった。収容されたのは2年9か月の間に約2万人いたとも言われ、そのうち生存者はわずか8人しかいなかった。

 「拷問や処刑に使われた道具までそのまま保存されているから、校舎内も見るかと言われたんですけど、駄目でした。僕は霊感が強いわけでもないのに気分が悪くなってきて、どうしても中へは入れなかったんです。その日に校舎内へ入った日本人の一人は、あまりに凄惨(せいさん)な光景を目にしたせいか、その晩ホテルで高熱に魘(うな)されて倒れてしまったほどでした」

 次に連れていかれたのは、プノンペンから南西15キロのチュンエク村にある「キリングフィールド(処刑場)」だった。ポル・ポトが山中で病死してからまだ3年も経っておらず、ポル・ポト派幹部を裁く特別法廷が設置されたのが、まさに北澤が訪れているこの2001年1月だった。トゥールスレンやキリングフィールドなどのいわゆる「負の遺産」は、当時のカンボジア国民にとってはまだ遺産などとは呼べない生々しい現実だった。

 「こんな処刑場が国内に100か所以上もあって、たった数年で国民の3分の1が殺されてしまったと説明を受けました。ああ、だからか。だから街に大人を見かけなかったり、人々に表情がなかったりしたのかと」

 そして、マイクロバスでやっと子どもたちのもとへと向かう途中、窓外を指差す案内人の言葉に胸を詰まらせた。

「あれがプノンペン・オリンピックスタジアムだと言うんです。だけど入口がすべて封鎖されていて、遠目から見ても使われている様子がありませんでした。競技場内には長らく人が入っておらず、動物が棲(す)みついて荒れ果ててしまっているとのことでした。そうか、サッカーは平和だからこそやれるんだなと実感させられました」

 同スタジアムは1964年に開場した5万人収容の巨大競技場のはずだった。日本サッカーの聖地とされた東京の旧国立競技場と同規模の建造物だが、鉄柵や鉄条網で封鎖されていて雰囲気がまるで異なった。

 「戦時中の日本も、やはりスポーツどころではなかったというじゃないですか。閉鎖されているスタジアムを眺めながら、ああ、戦後すぐの日本も、こんなふうだったのかもしれないな、そう思えてきました」

 たしかに、国立競技場も第二次世界大戦中の1943年には学徒出陣の壮行会会場となり、敗戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されて7年間も一般開放されなかった暗い歴史がある。

 「でも、満員の国立競技場のピッチに僕が立ってJリーグ開幕を華やかに迎えた1994年頃は、カンボジアは内戦直後で悲惨な状況だったわけですよね。アジアのこんな近くの国が大変なことになっていることを、なぜ僕は今まで知らなかったんだろうと、申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになりました」

 まだ現役選手である彼のカンボジア滞在は1泊2日という強行軍だった。さいわい、プノンペンの日没は東京より1時間半以上遅く、彼を乗せたマイクロバスは子どもたちが待っているという小学校へと急いだ。

 「幹線道路なのにアスファルトで舗装されていない道ばかりで、路面がでこぼこで車が跳ねるんです。マイクロバスの低い天井に頭をぶつけそうになりながら、今更ながらなんでこんな所へ来ちゃったんだよと後悔していました」

 訪れた1月は乾季で降雨量が最も少ない時期だった。もしこれが雨季であれば、ぬかるみにタイヤがはまって立ち往生してしまうこともままあるという。まるでラリーカーが進むように土煙を上げながら、マイクロバスは進んだ。

 「だけど、サッカーをして遊んでいる子どもなんて、街でまったく見かけなかったし、僕がサッカーボールを届けたり、サッカー教室をやったりするといったって、サッカーができる子なんて、本当にいるのかなと。あの競技場を見て不安になりました」

 到着すると、はたして彼の不安は的中してしまう。(敬称略)=続く=

 〇…東日本大震災から10年。日本サッカー協会(JFA)は3月11日の理事会を福島・Jヴィレッジで開催するが、現地に赴くのは役員のみとなり、同協会理事の北澤氏はリモートで出席することになった。被災地で直接、黙とうを捧げるつもりだった北澤氏は「残念です」と話すが、いまも困難に立ち向かう人たちのために陰から手をさしのべていく決意だ。

 ◆平山讓(ひらやま・ゆずる) 1968年、東京生まれ。作家。ノンフィクションや実話を基にした物語を数多く手がける。主な著書は「ありがとう」(講談社/東映系にて全国ロードショー)、「ファイブ」(幻冬舎/NHKにてドラマ化)、「4アウト」(新潮社)、「パラリンピックからの贈りもの」(PHP研究所)、「中田翔 逃げない心 プロ野球選手という仕事」(主婦と生活社)など多数。

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