今年度限りで定年を迎える高校ラグビーの名門・御所実(奈良)の竹田寛行監督(60)が、引き続き指揮官として日本一への挑戦を続ける。1989年の監督就任後、全国高校ラグビー大会(通称「花園」)に13度出場し、4度の準優勝に導いた名指揮官。今冬の第100回大会では、1月3日に優勝校の桐蔭学園(神奈川)に準々決勝で敗れたが8強に導いた。32年間の教員生活に別れを告げ、その先に描く未来とは。今春開催予定の「竹田塾」の展望にも迫った。(取材、構成・菅原 美沙)
定年前最後の花園で初優勝はならなかったが、ラグビーの聖地で竹田監督の目に光るものがあった。
「みんなによく頑張ったねと言ってあげたい。最後までやり切ったことを褒めてあげようと思います。全国大会や大きな大会で『絶対はないけど、絶対という言葉を信じて頑張れ。信頼!』と言って送り出すんです。流行語大賞にしようと思ったけど、できなかったんですけどね(笑い)」
1989年に御所実に赴任した当初は、部員がたった2人からのスタートだった。
「ラグビーを知らない子しか来てくれないのは分かっていたので、そこにいる生徒でできることを考えました」
全国大会13回の出場を誇るまでの道のりは、決して簡単なものではなかった。教師として2年目の1990年、練習中の事故で部員の北島弘元さんを亡くし、教師を辞めることを考えるまで絶望した。
「半年ほど活動を自粛して、その間は辞めようと考えていました。しかし、亡くなった子のお父さんに『ラグビーを続けてくれ』と言われて。年明けの近畿大会予選で天理と9―10の試合をしたんです。周りからは『日本一のチームに立ち向かおうとする姿に勇気をもらった』と。こんな子らでもできるんやと皆さんが思ってくれました」
人生の分岐点を経て、95年度大会で初の花園を経験。「天理1強」だった奈良県の勢力図を書き換える戦いで、「人間力」の大切さを実感した。
「いい試合はするけど(天理に)なかなか勝てない。そこで僕らができることは何かと言ったら『人間力』かなと。ラグビーを知っている子に勝とうと思ったら、やり切ること。この子たちに試合の勝ち負けより、逃げる場所をつくってあげないといけないと思いました。どんなことに対しても“帰る家”をつくらないとダメなんです」
帰る家、すなわち逃げる場所。グラウンド外での人間教育に力を注いだ。自宅を改造した部屋と、地元工務店の協力で建てた寮では、現在約30人が生活を送っている。
「テーブルマナーや掃除の仕方、生活の基礎基本を教えてあげて、真心が伝わっていけばうれしい。古いことと新しいことの融合で、今のニーズに合うものがあればいいなと思っています。学校では教えられないことを教える学校をつくるのが夢やったんです」
定年後は県や市の協力を得て、中学生を対象に「竹田塾」の開催を予定している。次世代のリーダー育成に力を注ぎ、ラグビーを通したコミュニケーション能力を向上させるのが目的だ。“卒業生”が御所実以外の高校で活躍することも大歓迎。米国で提唱されている概念「GRIT=やり抜く力」をテーマに掲げている。
「逃げたり泣いたり誰かのせいにしない、自発的に頑張っていこうという思いです。パソコンやAIのような冷たい機械に負けるんじゃなくて、常に臨機応変にムードの読める人間になってもらいたい。竹田塾を経験した生徒が、世の中のリーダーになれるようにしたいです」
御所実ではニュージーランドの高校と姉妹校提携を結び、ラグビーを通じて交流するプランも進行中だという。
「学校の授業を見たり、生徒と一緒にボール遊びをしてもらったり。地域の人との交流も考えています。外国人、アイランダーは誠実なんです。例えば、釣りに行ったら日本人は釣った魚を全部持って帰るけど、フィジーとかサモア、トンガの人は家族の分だけで後は全部リリースするんです。一緒に生活したら人間の質が変っていくんじゃないかな」
これまで培ったノウハウを基に、地域貢献や国際交流も視野に入れる竹田監督。いよいよ“第二の人生”がスタートする。
「4月からは時間がたくさんあるので、やりたいことをプロフェッショナルにできると思います。竹田塾は奈良県だけじゃなくて関東でも開催したい。いずれは全国にも行きたいですね。あと20年、竹田塾の教員をしようかな。それが僕の狙っているところです」
◇GRIT(グリット) 米・ペンシルベニア大の心理学教授、アンジェラ・ダックワース氏が提唱した「やり抜く力」と定義される言葉。Guts=度胸、Resilience=復元力、Initiative=自発性、Tenacity=執念の頭文字を取っている。フェイスブック社のCEO・ザッカーバーグ氏も「成功のカギは信念とGRITを持つことだ」と発言。米オバマ前大統領もスピーチに「GRIT」を用いた。
◆竹田 寛行(たけだ・ひろゆき)1960年5月8日、徳島・美馬市生まれ。60歳。脇町高2年時にラグビーを始め、天理大に進学。ポジションはNO8。卒業後の89年度に保健体育教諭として御所実(当時御所工)に赴任し、ラグビー部監督に就任。全国高校ラグビー大会は95年度に初出場し、準優勝が4度。