【東日本大震災10年語り継ぐ】宮世琉弥、7歳で被災後に聞いた母の言葉「亡くなった人たちの分まで生きなさい」

「風化させないように、という思いが大きくなっている」と語る宮世琉弥(カメラ・森田 俊弥)
「風化させないように、という思いが大きくなっている」と語る宮世琉弥(カメラ・森田 俊弥)

 フジテレビ系「青のSP―学校内警察・嶋田隆平―」(火曜・後9時)に出演する俳優・宮世琉弥(りゅうび、17)は宮城・石巻市出身。小学1年、7歳の時に被災し、津波に襲われた。「(亡くなった)その人たちの分まで生きなさい」という母親の言葉を胸に10年、過ごしてきた。震災をテーマにした映画作りが夢。その実現のため、役者業に懸命に取り組む。(加茂 伸太郎)

 強烈な横揺れが続いた。筆箱の中身は散乱し、ランドセルは床にたたきつけられた。宮世は机の下に頭を隠すと、その脚を必死に押さえ、ただ時間が過ぎるのを待った。

 「連絡帳に明日(3月12日)の持ち物を書いている時だったと思う。何が何だか分からなくて。放心状態というか。先生に指示されるまで机の下から動けませんでした」

 海岸から約1キロ、標高1メートルあまりに位置した小学校。車で迎えに来た母親と帰宅途中に、津波に襲われた。田んぼに囲まれた道を走っていた時、午後3時半を回っていた。「お母さんが『洪水かな』と言ったので、後部座席に座っていた僕は窓を見たんです。水が来ているなと思って前を向いたら、水が迫ってきていた。うわっ…。何、これ…」

 気付くと、車が押し流されていた。行き着いたのは水のない場所だった。「何が起こったのか、分からなかったというのが正直な感想です。お母さんが思いきりアクセルを踏んで、という感じ。運が良かったです」

 しばらくの間、石巻市内のいとこの家で過ごした。3月下旬に自宅に戻ると家は流され、慣れ親しんだ景色は跡形もなかった。「真っさらで何もない。自分の家がどこにあったかも分からない。どこだろう、ここ」

 途方に暮れる中、忘れられない光景を目にした。「飼っていたシバ犬が、家のあった所で死んでいたんです。犬小屋は(流されて)ない。あれだけの津波が来たら普通なら流されている。不思議ですけど(犬は)そこにいてくれた。家を守ってくれていたんだなって」

 被災して間もない頃、母親から掛けられた言葉がある。「(震災で亡くなった)その人たちの分まで生きなさい」。仲が良かった同い年の親戚も犠牲になった。何げない会話の中からだったが、今も胸に刻まれているフレーズだ。

 「つらいことってあると思う。いろいろあって(自死を選んで)亡くなる方もいるじゃないですか。でも、僕は負けたくない。簡単なことじゃないけど、『生きてんだよ!』っていう強い気持ちでいたい。自分が生きているだけでもすごいこと。それが夢を持って、目標に向かって進めている。幸せだなって思います」

 この仕事に興味を持ったのは15年、女川町の「復幸祭」イベントに出演した、ももいろクローバーZの影響。「テレビでしか見たことない人が目の前にいた。一瞬にして雰囲気が変わり、明るい空気になった。その時、僕も人を元気づける仕事がしたいと思いました」。その後、ショッピングモールでスカウトされ、芸能活動を始めた。

 夢は震災をテーマにした映画を作ること。福島第1原発事故を描いた映画「Fukushima50」(佐藤浩市主演、20年3月公開)を見て、その思いをより強くした。「震災を知らない人にも、作品を通じてリアルに届けられると実感しました。何歳になってもいいので実現させたい。諦めずにやりたいですね。震災について忘れられるのは嫌。風化させないように、『こういうことがあったんだよ』と伝えていきたい」

 ◆宮世 琉弥(みやせ・りゅうび)2004年1月22日、宮城県出身。17歳。宮城から世界に羽ばたけるようにと、19年2月「琉弥」から改名。ドラマ「パーフェクトワールド」(19年、フジテレビ系)、「恋する母たち」(20年、TBS系)などに出演。趣味は映画観賞、ファッション、カメラ。特技は野球、ギター、歌唱。176センチ。血液型AB。

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