【東日本大震災10年語り継ぐ】林家たい平「落語家になる」決意した石巻市 「そばすすり」教えた子供たちが復興の希望

石巻への思いを語るたい平(カメラ・橘田 あかり)
石巻への思いを語るたい平(カメラ・橘田 あかり)

 林家たい平(56)は大学4年の時に訪れた宮城県石巻市で落語家になることを決意した。大震災で震度6強を記録し、津波被害もあった同市への思い入れは深い。震災1か月後に訪問、同年9月に落語会を開き、以後は毎年のように足を運んでいる。震災直後の石巻市で感じたこと、10年通い続けたからこそ分かった子どもたちの成長などを語った。(瀬戸 花音)

  • たい平が撮影した震災1か月後の石巻市内(本人提供))
  • たい平が撮影した震災1か月後の石巻市内(本人提供))

 家があったであろう場所で何かを探す人、流されてきた多くのものが掛かった橋の欄干、救急車の列…。2011年4月。震災後初めて訪れた石巻市は、テレビで見たよりもはるかに壊滅的だった。「もうこれは人間の手で元通りになるのかな…」。そう思ってしまった。

 大学4年生になる1987年春、落語研究会に所属していたたい平が進路に迷い、東北を旅してたどり着いた石巻。老人ホームで披露した落語で笑顔をもらい、高台の桜の下「落語家になろう」と決意した。そんな思い出の地は一変していた。

  • 石巻市の小学校でそばをすする落語のしぐさを披露する林家たい平(2011年4月=本人提供)
  • 石巻市の小学校でそばをすする落語のしぐさを披露する林家たい平(2011年4月=本人提供)

 被災地では温かい食べ物を配り、小学校で子どもたちにそばをすする落語のしぐさを披露した。しかし、「何か出来ると思って行ったんだけど、結局なにも出来なかった」。駅前でぼう然と立ち尽くす人に「大丈夫ですか」となんとか声をかけた。「話を聞くことが唯一出来ることだと思って」。話すことをなりわいとするたい平が出来たのは、少しずつ出される声に耳を傾けることだけだった。

 同年9月、震災後初めて石巻で落語会を開いた。地元の人に「これからは心の復興を考えなきゃ」と言われたことがきっかけだった。人が亡くなる表現や、避難所ではなかなか飲めないであろう酒が出てくる演目は避けた。「だれかひとりでも傷つけてはいけない」。命を落とした人や見つからない人がいる。まだ笑える状態でないことは分かっていた。それでも「一人よりは皆で集まって笑いの中に身を置くことで元気になってくるんじゃないか」という思いがあった。

 それから5年ほどたったある日。上野の鈴本演芸場の前に大きなバスが1台止まっていた。プレートを見ると「石巻たい平応援隊」の文字。お客さんに木戸銭を払って落語を見に来てもらうのはまだまだ先だと思っていただけに「とてもうれしかった」という。その頃から徐々に石巻の人々の顔が穏やかになるのを感じた。落語をしても「何もかも忘れて心の底から笑ってくれている」と思えるようになってきた。

  • 地元の人と交流するたい平(20年10月=本人提供)
  • 地元の人と交流するたい平(20年10月=本人提供)

 今も落語会やイベントで定期的に石巻を訪れるが、市街地には駐車場が多い。「もともとそういう町だったと言われればそう思うだろうけど…」。商店街や飲み屋でにぎわっていた町は、10年たっても元通りとまではいっていない。

 それでも、希望もある。「僕、あのときの小学6年生です」と1人の青年から声をかけられた。震災後初めて石巻を訪れた時に、そばのすすり方を教えた少年だった。

 「あのときの子どもたちが今度はどうやって石巻をつくり変えていくんだろうっていうのは楽しみでもある。だから見続けたいと思う。終わりではないから」

 ◆林家 たい平(はやしや・たいへい)本名・田鹿明。1964年12月6日、埼玉・秩父市生まれ。56歳。武蔵野美大卒業後、林家こん平さんに入門し、88年から前座。92年5月に二ツ目、2000年3月、真打ち昇進。04年、闘病中のこん平の代役として「笑点」の大喜利メンバーに。06年5月に正式メンバー。著書「はじめて読む 古典落語百選」が星雲社より発売中。07年度、芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。落語協会理事。身長168センチ、血液型B。

石巻への思いを語るたい平(カメラ・橘田 あかり)
たい平が撮影した震災1か月後の石巻市内(本人提供))
石巻市の小学校でそばをすする落語のしぐさを披露する林家たい平(2011年4月=本人提供)
地元の人と交流するたい平(20年10月=本人提供)
すべての写真を見る 4枚

芸能

宝塚歌劇特集
NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請