あの時、カル・リプケンを口説けていたら…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<4>

スポーツ報知
安藤統男氏

 前回書いた通り、1981年11月、獲得が内定していたキム・アレンを視察するためベネズエラに入りましたが、体調を崩して3日で退散。私たち一行はプエルトリコに移動しました。

 実はこの年、新外国人選手の本命が他にいました。“ビッグレッドマシン”で有名になった元レッズの二塁手・ジョー・モーガン(当時はSFジャイアンツに在籍)です。私が目指した機動力野球にはうってつけの選手でした。盛りは過ぎていましたが、日本なら十分にやれると思いました。

 ところが、彼を獲得するには高いハードルがありました。球団から「新外国人に出せるのは10万ドル(当時のレートで約2000万円)まで」と言われていたのです。その4倍はかかるビッグネームを断念して、キム・アレンとグレッグ・ジョンストンに切り替えたというわけです。確か、契約金を合わせて2人で10万ドルを少し越えるくらいでおさまったはずです。しかし、仮にモーガンを取れて彼が実績通りの活躍をしていれば、バースは獲得していなかったかもしれません。モーガンが取れなかったから、阪神・バースが誕生したとも言えます。

 ところで、プエルトリコで我々は素晴らしい選手を見つけました。バッティングは力強く、足も速い。守りも堅実で肩もいい。3拍子そろった、今の球界で言うなら巨人・坂本勇人をひと回りもふた回りも大きくしたような遊撃手が我々の目に強烈に残りました。

 試合後。球場近くのハンバーガー屋で食事をしていると、何とその選手が隣りの席でハンバーガーを食べていました。「彼に声を掛けてみなよ」。私は通訳の本多達也君をけしかけました。本多君は私の話を3倍増しくらいにして「日本に来たら、神戸ビーフを腹一杯食べさせてやる」「100万ドル出してもいいぞ」とか何とか、うまい言葉を並べ立てて誘いました。

 しかし、若者はきっぱりと言いました。「僕は来年メジャーでチャンスがあるから、日本には行かない」。その言葉通り、彼は翌年オリオールズでレギュラーになり、新人王も獲得。その後2632試合連続出場というとてつもない世界記録を作りました。

 そうです。カル・リプケンです。我々は、彼の才能を見抜いて、スカウトしたのです(笑い)。「あの時もう少しうまく誘っていたら、阪神に来ていたのに…」と今でも笑い話になります。

 すっかり話がそれました。次回は本筋に戻ります。バースのお話です。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。81歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は3月1日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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