最多失策記録…柳鶴震遊撃手のシーズン75失策を検証してみた

最多失策記録
最多失策記録

 人工芝のグラウンドが増え、土や天然芝のスタジアムの整備も行き渡り、グラブもより機能的になってきた現在では失策は本塁打を見るよりも難しくなっている。

 シーズン400投球回以上が15人(2リーグ制後は5人)もいたように、シーズン60失策以上7人中6人までが1リーグ時代。今でも燦然と輝いている?のが1940年のセネタース(10月末から球団名は翼に)の柳鶴震遊撃手(後に大塚鶴雄に改名)の75失策。1942年朝日の林安夫投手の541回1/3とともに2度と破られることにないアンタッチャブルレコードだ。この75失策を分析、検証してみた。

 柳選手は、群馬の名門校・桐生中で2度甲子園出場し、仙台鉄道局入社が決まっていたが、当時のセネタース代表・詫磨治利氏に誘われてセネタース入り。名手苅田久徳二塁手とキーストンコンビを組んでいた中村信一が1938年に応召して遊撃手を捜していたことが理由だったのではないだろうか。ルーキーの年に、いきなり96試合全試合スタメン出場。打率2割4厘、25打点で現在のオールスターゲームに当たる東西対抗戦の東軍の控え選手としても選出された。だが、守備成績を見ると66失策。強肩だったのが逆に災いしてか、悪送球18、フライ、ライナーの落球が6もあるなど若さが目立った。11月4日阪急戦でのワンサイドゲームでは、強肩を買われ4回からマウンドに上がり5イニングを8安打6四球7失点だった。

 2年目は打撃面に成長を見せた。3月24日巨人戦でこの年42勝するスタルヒンからプロ1号をグランドスラムで飾るなど3安打。4月12日金鯱戦でも3打数3安打3打点。3月20日から4月12日までの12試合に44打数18安打14打点の猛打を見せつけ、打順は6番→5番→7月には4番に3度座ることになった。

 しかし、守備はオフに鍛えた練習が功を奏さず、満塁本塁打を放ったジャイアンツ戦で3失策を演じるなど前後9試合連続失策。5月10日阪神戦は1試合4失策も記録した。5月27日から6月21日イーグルス戦で11試合ノーエラー、8月19日阪急戦8回先頭打者のゴロをはじいたが、5刺殺、10補殺と1試合16守備機会という試合もあったが、中盤から5試合続けて無失策はなく最終戦で75まで伸びてしまった。

1940年、75失策の内訳を見てみよう。フライ落球はなかったものの、トンネルやファンブルしたのが55、悪送球が18、送球を落球したのが2。

 イニング別では1回=11、2回=4、3回=10、4回=7、5回=11、6回=3、7回=12、8回=9、9回=6、延長=2。

無走者=49、一塁=11、二塁=7、一、二塁=3、一、三塁=2、二、三塁=3。

 彼の失策による自責点にならない失点が合計38もあった。5月14日阪急戦は1点リードの9回2アウトからゲームセットの打球を失策してから逆転負け。10月13日名古屋戦では8回1死一塁から併殺打と思われた打球をミス。気落ちしたか直後に3ランが飛び出した。ともに勝利一転黒星となったのはエースの野口二郎だった。

 柳は翌年、南海に移籍し43試合の出場。しかし、戦争激化で選手払底もあって1942年には正三塁手に再び抜てきされたが、三塁88試合で31失策。北原昇二塁手の病気療養から玉突きで古巣の遊撃を守った秋季リーグの前半17試合で19失策(9試合連続も)と合計50失策も記録した。終盤は再び三塁に回っている。プロ最終年度の1943年大和で27試合の出場(すべて三塁)でユニホームを脱いでいる。いかにグラウンドが悪く、グラブも粗悪だったとしても彼の失策数はプロ野球界でも群を抜く数字として残っている。

 なお、同選手は戦後、衝撃的な告白をして球界を揺るがせることになる。

 蛭間 豊章(ベースボール・アナリスト)

 ※2015年3月23日BASEBALL INSIDE

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