「すぐに帰って来てくれ」突然の監督就任要請…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<3>

2012年11月18日、甲子園での阪神・巨人OB戦で久々のユニホーム姿を披露した安藤統男氏
2012年11月18日、甲子園での阪神・巨人OB戦で久々のユニホーム姿を披露した安藤統男氏

 ランディ・バース獲得までの裏話を―、前回にそう予告しましたが、話が少しそれます。

 1981年10月。私は米国・セントピーターズバーグにいました。阪神の2軍監督として、阪神、横浜大洋、中日の若手選手を連れて教育リーグに参加していました。

 現地入りして1週間、1本の国際電話が入りました。電話の主は小津正次郎球団社長でした。「すぐに帰って来てくれ」。突然の帰国命令です。驚きました。

 日本に帰ると、またビックリ。監督就任要請でした。日本を出る時、小津さんにこう言われていました。「帰って来た時には中西太さんに代わって、広岡達朗さんが監督になってるから」。どうやら広岡さんとの交渉がうまくいかなかったようです。私への就任要請は「やってもらうから」。半ば強制(笑い)でした。

 監督としての事務処理を済ませ、再びセントピーターズバーグに戻って教育リーグを終えると、新外国人の候補、キム・アレンらを視察するため、編成部長の藤江清志さん、通訳・渉外担当の本多達也君と3人でベネズエラ、プエルトリコに渡りました。

 当時のベネズエラは首都・カラカスでも100メートルおきに自動小銃を持った兵隊が立っているなど、治安も環境もよくありませんでした。視察2日目、水が合わなかったのか、球場で腹を壊しました。係員にトイレの場所を聞いて個室に飛び込みました。

 が、ピンチ! 便器の上にあるはずの便座がない! 覚悟を決めました。便器をまたいで中腰でするしかない。この時ばかりは「内野手をやっててよかった」と思いました。その姿勢が内野手がゴロを捕球する時の構え方と同じなのです。

 さて、用を済ませ…。ところが、一難去ってまた一難。紙がない! だが、またしても幸運。たまたま新聞を持っていました。ズボンのポケットからハンカチも出て来ました。これ以上説明の必要はないですね。

 この話をキム・アレンにすると「“ドンデスタ・パペル・デル・バニョ”と言わないと、紙があるトイレの場所を教えてくれないよ」と言われました。“パペル”は“ペーパー”のこと。ただの“デル・バニョ(便所)”には紙が付いていない。1つ勉強しました。

 そんな訳で、早々とベネズエラを後にした私たちはプエルトリコへ。なかなか本題に入りませんが、年寄りの話はくどいのが決まりです。もう少しお付き合いください。次回は阪神・リプケンが誕生していたかもしれない仰天話を―。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。81歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は2月15日正午配信予定。「安藤統男の球界見聞録」で検索。

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